筆者 張子申ら
出版 解放軍出版社、2009年1月第1版
価格 40元
1. 部隊を率いて台湾を侵略した日本の親王ー日本軍近衛師団長、日本親王北白川能久大将の中国侵略の悪行
北白川能久は1847年日本の北白川家、すなわち伏見宮の第9子として生まれた。1848年、仁孝天皇の養子となり
北白川宮または能久親王と称した。青年時代に天皇の親衛隊に入り、近衛兵に任じられ日本の西南戦争に参加したことがある。1874年9月陸軍少佐の軍位を授与される。1877年ドイツの陸軍大学を卒業。1879年陸軍中佐に任命。翌年4月
日本軍参謀本部の任につく。1881年6月陸軍省軍事議定官を兼務。11月陸軍大佐に昇任。1882年夏、朝鮮の日本侵略と圧迫に反対する民族闘争の鎮圧計画に参与。1883年4月戸山山歩兵学校の校長に任ぜられる。翌年11月、陸軍少将に昇任、東京鎮台の司令官に任命。1885年5月歩兵第1旅団の旅団長に任命。1886年12月金3級勲章を獲得。1892年12月陸軍中将に昇格し、第6師団師団長に任ぜられる。翌年11月第4師団師団長に任命。1895年1月近衛師団師団長に任ぜられ、その後部隊を率いて中国東北部と台湾に侵略。同年秋、台湾の南部で中国軍と台湾義勇軍に襲撃され重傷を負い、10月28日、そのまま死亡した。死後、天皇から陸軍大将の位を贈られた。彼は台湾で中国の軍民に撃たれて死んだ
初めての日本軍陸軍大将である。
2. 天皇の寵愛を受けた家臣ー日本の台湾駐在総督兼「満州国」総参謀長、児玉源太郎大将の中国侵略の悪行
児玉源太郎は1852年日本の山口県に生まれた。1871年4月、原住民の反乱鎮圧作戦に参加。1874年8月熊本県鎮台
の参謀に任ぜられる。1878年12月近衛師団の副参謀長に任命。1880年5月歩兵第2連隊連隊長兼佐倉営司令官に任命。1883年2月、歩兵大佐に昇格。1885年5月、参謀本部局長に任命。翌年9月、日本陸軍大学校幹事を兼任。1887年6月、軍部参謀長を兼任。10月、陸軍大学校校長を兼任。1889年8月、陸軍少将に昇進。1891年10月ヨーロッパに出張。翌年8月、陸軍省次官兼軍務局局長に任命。1893年4月陸軍省法官部部長を兼任。1895年3月、大本営留守参謀長兼臨時検疫部長に任命。8月、男爵を与えられる。翌年10月陸軍中将に昇進。1898年1月第3師団師団長に任命。2月、台湾総督に任命。1900年12月、陸軍大臣を兼任(1902年3月免職)。1903年7月内務大臣を兼任。10月、内務大臣を免職され改めて参謀本部次長を兼職。翌年6月陸軍大将に昇進し、「満州軍」総参謀長を兼職、日露戦争に参加。1906年4月、台湾総督を免職され日本軍参謀総長に任命。7月中国東北部の「南満州鉄道建設委員会」の委員長を兼職。同月23日、中国の渤海湾で死亡。彼は中国で頓死した唯一の中国を侵略した日本の総参謀長だった。
1月 1st, 2011
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発行:河北人民出版社、2009年10月
著者:戚厚杰
定価:16元
目次 前言 戦場の後方でひそかに放たれた矢
第1章 スパイの国
1.日本スパイの開祖豊臣秀吉
2.スパイ体制
3.反スパイ工作
4.スパイの優遇
第2章 さまざまなスパイ
1.スパイの訓練
2.さまざまなスパイ
3.スパイの方法
第3章 中国を詳細にスパイする
1.中国を盗撮
2.地図を盗む
3.地図の調査と整理
4.満州鉄道のスパイ網
第4章 戦争は早くも開始していた
1.スパイの網の目
2.蒋介石の日本人スパイへの恐怖
3.”七・七事変”以前のスパイ網
4.中国陸軍を調査する部署
5.華南のスパイ網
6.中国空軍の調査
7.分裂や動乱を仕組む
第5章 毒蛇のような女スパイたち
1.カラチン諜報局の主人ー河原操子
2.男装の上手な美人スパイー川島芳子
3.上海の怪しいスパイー阪西恵子
4.妖怪変化の竜ーサードゥオウスカーヤ
5.”満州”の女スパイー景慧貞
6.中国に嫁いだスパイー今井芳子
7.看護婦になりすましたスパイー中島成子
8.”帝国の花”−南造雲子
第6章 しっぽをつかまれた狐
1.中村事件
2.成都事件
3.鄭州でつかまったスパイ
4.南苑スパイ事件
第7章 ”第3の戦場”
1.経済収奪
2.軍事偵察
3.前線の特務
4.師団の宣伝隊
5.紙幣の偽造
第8章 目に見えない戦線
1.民間信仰団体を利用して
2.宗教を利用して抗日活動を破壊する
3.偽装して町の中に入り込む策略
4.”娼婦政策”
5.”裏切り者政策”
6.子供のスパイを訓練
第9章 暗殺計画
1.日本の最初の中国に対する暗殺行動ー張作霖爆殺事件
2.降伏に応じなかったのちの悪辣な手ー呉佩孚暗殺
3.抗日戦争の英雄に手を下すー馬占山を暗殺
4.徹底的な抗日主義者に打撃をー于学忠を暗殺
5.全面的な侵略戦争後の暗殺計画ー蒋介石の暗殺
6.外交が困難に陥った時の策ー宋子文の暗殺
5月 16th, 2010
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編著者 紀学仁
発行 社会科学文献出版社、2008年1月
価格 59元
編著者紹介 紀学仁、1934年11月遼寧省営口で生まれる。1950年中国人民解放軍毒ガス防護隊に
参加。1981年中国人民解放軍毒ガス防護指揮工程学院で教育・研究に従事し、訓練部副
部長、科学研究部教授などを歴任した。著書に「化学戦の歴史」、「日本の中国侵略戦争に
おける化学戦」(日本で翻訳本が出版されている)、「中国侵略日本軍の遺棄化学兵器問題
の研究」「21世紀核化学兵器の脅威のゆくすえ」「核化学兵器防御戦問題研究」 など。
目次 序
前言
第1章 中国侵略日本軍が化学兵器を使用した概況
第2章 ”七・七”盧溝橋事件以前の日本軍が毒ガス戦を行った事例
第3章 1937年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第4章 1938年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第5章 1939年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第6章 1940年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第7章 1941年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第8章 1942年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第9章 1943年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第10章 1944年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第11章 1945年に日本軍が毒ガス戦を行った事例
第12章 付録
参考文献
5月 9th, 2010
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著者 Nie Lili
発行 明石書店、2006年12月25日
価格 本体7600円+税
著者紹介 中国人民大学哲学系で哲学、北京大学社会学系修士課程で社会学を学んだ。1986年に来日、
東京大学大学院総合文化研究科で文化人類学を専攻し、1990年に博士課程を修了、学術博士
号を取得。現職は東京女子大学現代文化学部教授。
(著書) 「劉堡ー中国東北地方の宗族とその変容」(東京大学出版会、1992年)
(共編著)「大地は生きているー中国風水の思想と実践」(てらいんく、2000年) など。
目次 序章 民衆の戦争記憶と向き合う
第1章 民衆の戦争記憶を「歴史」にする
第2章 常徳という地域
第3章 記憶にある細菌戦被害
第4章 命を全うしようとする文化の悲哀
第5章 ペスト発生後の民国政府の対応と民衆社会
第6章 細菌戦被害のその後
第7章 被害記憶の保存
終章 民衆の戦争被害記憶の力
あとがき
資料
参考文献
索引
5月 9th, 2010
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著者 金文子
発行 高文研、2009年2月15日
価格 本体2800円+税
著者紹介 金文子(キム・ムンジャ)
1951年、兵庫県に生まれる。70年大阪府立北野高校卒業。79年奈良女子大学文学部修士課程
終了。79年4月から86年3月まで同大学文学部助手。98年4月から現在に至るまで、同大学事務
補佐員。
論文等「パク・キュスの実学ー地球儀の製作を中心に」(「朝鮮史研究会論文集」17号、1980年3月)
「李朝後期科挙制度についてー直赴法を中心に」(「研究年報」24号、奈良女子大学文学部、1981年
3月)「三・一運動と金@植ー独立請願書事件を中心に」(「寧楽史苑」29号、奈良女子大学史学会、
1984年3月)
目次 序章 王妃の写真
T 日清戦争大勝利のあとに
−揺れ動く日本の対朝鮮政策
U 王妃殺害を準備したのは誰か
−特命全権公使・三浦梧楼の登場
V 「王妃事件」第一報の打電者
−新納時亮海軍少佐に見る日本海軍の諜報活動
W 陸軍は事件にどう関わったか
−楠瀬幸彦陸軍砲兵中佐の足跡を追って
X 告発と隠蔽のはざまで
−京城領事・内田定槌が残した事件の真実
Y 王妃殺害に加わった「壮士」たち
−熊本国権党と王妃事件
Z 現場からの逃走
−法部顧問・星亨と、写真師・村上天真
終章 狙いは「電信線」の確保だった
あとがき
5月 9th, 2010
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編集 姜力
発行 解放軍文芸出版社、2005年1月
価格 中国40元
目次 はじめに 姜力
序言
裁判の文書
元日本陸軍軍人山田乙三、梶家隆二、川島清、西俊英、柄沢十三夫、尾上正男、佐藤俊二、平桜全作、
三友一男、菊池則光および久留島祐司が細菌兵器を準備し使用した罪によってソ連最高主席団が1943
年4月19日に法令第1条に定められた案件について提出したもの。
起訴状
被告と証人の証言
被告山田乙三の公判記録 1946年12月6日 ハバロフスク
被告高橋隆馬の公判記録 1946年12月6日 ハバロフスク
被告川島清の公判記録 1946年12月6日 ハバロフスク
被告西俊英の公判記録 1946年12月6日 ハバロフスク
被告尾上正男の公判記録 1946年12月6日 ハバロフスク
被告佐藤俊二の公判記録 1946年12月6日 ハバロフスク
被告菊池則光の公判記録 1946年12月6日 ハバロフスク
被告久留島祐司の公判記録 1946年12月10日 ハバロフスク
証拠文献
被告と証人の法廷での証言
検察委員会の結論
国家公訴人の陳述
各弁護人の陳述
軍事法廷の判決文
5月 9th, 2010
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著者 滝谷二郎
発行 新森書房、1989年4月20日発行
価格 2369円(本体価格2300円)
目次
プロローグ いま、なぜ731部隊なのか
第1章 731部隊林口支部長の証言「細菌戦は対ソ戦略の主武器だった」
1945・林口 戦鬼たちの崩壊
1950・撫順 撫順戦犯管理所での日々
昭和史の謎を解明する告白調書
731部隊林口支部長・軍医少佐榊原秀夫の自筆供述書
初めて公表される731部隊の全貌
林口支部の細菌生産態勢についての報告
林口支部は対ソ戦略・細菌戦の最前線基地だった
大量殺りく兵器を生産
ひと月15キロの細菌生産能力があった731部隊と各部の任務
1989・林口
第2章 731部隊日本人隊員の告白 「こうしてマルタの生体実験が行われた」
1956・撫順
「戦友まで生体実験で殺されていた」
16歳で731部隊少年に
731部隊は中国でなにをしたか
林口支部長の細菌生産の告白を聞いていた
中国でくりかえされた細菌戦演習と遠征隊
細菌部隊ひとすじに生きた少年の経歴
「私はマルタを使って生体実験の比較テストを行った」
統計事務係の目で見た生体実験観察
731部隊はアジア侵略の最大武器だった
「これ以上、人殺しはしたくない」
細菌入りの水を飲ませ、注射するのが私の仕事だった
第3章 731部隊の中国側関係者の証言
1989・平房
1946・後二道溝屯
1989・義発源屯
失われた故郷
731部隊本部周辺住民代表の被害報告
戦鬼たちのつめ跡
731部隊に徴用された中国人の証言
あとがきにかえて 731部隊の再来を防げ
生き続けている731部隊
国民に隠されていた戦後の細菌戦の日米協力
1989・東京
5月 9th, 2010
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著者 内藤正中
出版 新幹社、2008年10月1日発行
定価 本体価格800円+税
著者紹介 1929年生まれ、京都大学経済学部卒業。島根大学名誉教授。
(主要著書) 「竹島(鬱稜島)をめぐる日朝関係史」(2000年、多賀出版)
「竹島=独島論争」(2007年、新幹社、共著)
「史的検証 竹島・独島」(2007年、岩波書店、金柄烈と共著)ほか多数
目次 はじめに
序章
Point1 日本は古くから竹島の存在を認識していました。〜ほんとうか?
Point2 韓国は古くから竹島を認識していたといいう根拠はありません。〜事実は?
Point3 日本は鬱稜島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、遅くとも17世紀半ばには、竹島の
領有権を確立しました。〜論拠は?
Point4 日本は17世紀末、鬱稜島への渡航を禁止しましたが、竹島への渡航は禁止しませんでした。〜
史実は?
Point5 韓国が自国の主張の根拠として用いている安龍福の供述には、多くの疑問点があります。〜
史実は?
Point6 日本政府は1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました。〜
再確認とは?
Point7 サンフランシスコ平和条約起草過程で、韓国は、日本が放棄すべき領土に竹島を含めるよう
要請しましたが、米国は竹島が日本の管轄下にあると拒否しました。〜連合軍・米国の考え
は?
Point8 竹島は1952年、在日米軍の爆撃訓練施設として指定されており、日本の領土として扱われ
たことは明らかです〜背景は?
Point9 韓国は竹島を不法占拠しており、我が国としては厳重に抗議しています。〜抗議の内容は?
Point10 日本は竹島の領有権に関する問題を国際司法裁判所に付託することを提案していますが、
韓国はこれを拒否しています。〜ほんとうの事情は?
あとがき
5月 9th, 2010
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著者 吉岡吉典
発行 新日本出版社、2009年12月30日初版
定価 本体2000円
著者紹介 吉岡吉典(よしおかよしのり)
1928年5月16日島根県生まれ。
1948年日本共産党に入党。旧制松江高等学校を中退し、党の常任活動家の道へ。1959年赤旗記者
となり上京、政治部長などを経て1983年赤旗編集局長。1986年参議院比例区で初当選(以後3期)。
党政策委員長、常任幹部会委員などを歴任し、2004年から名誉委員。
2009年3月1日、韓国・ソウルの講演先で死去。
目次 はじめにー事実を国民の常識に
序章 日本の朝鮮侵略にかかわる各地の記念施設を巡って
1 豊臣秀吉・加藤清正の朝鮮侵略戦争をめぐって
2 明治政府の侵略に反対し、たたかった愛国者の碑
第1章 「韓国併合」とはなんだったのか
1 「韓国併合条約」の条文に見る偽り
2 練り上げられた「併合」という用語
3 韓国併合は「帝国100年の長計」と閣議で決定
4 神功皇后・豊臣秀吉を受け継ぐものと本音を吐いた寺内正毅初代総督
5 明治政府指導者が受け継いだ侵略思想
6 神功皇后と豊臣秀吉の夢とは
第2章 戦後日本と「併合条約」
はじめにー戦後の日韓対立の基本は何だったのか
1 ポツダム宣言尊重か否定か、で対立した戦後の日韓関係
2 日韓交渉と日韓国会にみる日本政府の「歴史認識」
3 1990年代の一定の「反省発言」と侵略戦争肯定勢力の反撃
4 戦後50周年「村山談話」と「韓国併合」
第3章 法的にも明確にし、100年来の課題に決着を
1 100年間、不当、不法を叫び続けている韓国・朝鮮と日本
2 国際的に「違法」論があったことをどう見る
3 加害者と被害者を念頭においてー加害者日本が考えるべき立場
4 歴史の進歩・発展にそって
おわりにー私と朝鮮研究
進歩をめざす歴史の大勢に順った朝鮮人民の運動と、逆らった日本帝国主義ー3・1運動90周年に思う
(2009年3月1日、ソウルでの講演)
(解題)中塚明(奈良女子大学名誉教授・日本近代史専攻)
5月 8th, 2010
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著者 崔文衡(チェ・ムンヒョン)
訳者 金成浩(キム・ソンホ)、齊藤勇夫
発行 彩流社、2004年2月28日
定価 本体2500円+税
目次 日本人が知るべき歴史事実ー日本の皆さんへ
刊行にあたって
はじめに
第1章 閔王后と大院君の対立と葛藤
高宗の即位と閔氏政権による開国
1 閔王后の幼年期と国内外の状況
2 大院君の登場とその内外政策
3 閔王后の登場と国内の状況
4 高宗の親政と開国にともなう閔王后の課題
5 閔氏政権の政策転換と欧米列強との修好
第2章 日本による朝鮮保護国化と閔王后の抵抗
日清戦争と朝鮮をめぐる日露の角遂
1 閔氏政権の「拒清」政策と韓露修好
2 日本の対清開戦圧力と閔氏政権の「拒日」感情
3 閔王后と日清戦争
第3章 閔王后の「引露拒日」策と日本政府による殺害
日本を退けロシアを引き入れた閔王后の除去
1 三国干渉と日本の屈服
2 干渉三国間の利害対立と日本の干渉克服
3 閔王后の「引露拒日」策とその問題点
4 日本の状況変化と井上馨の閔王后殺害主導
5 井上の三浦梧楼推挙とその意味
6 伊藤内閣の臨時国会不開催決定とその意味
7 井上のソウル帰任と欺瞞行脚
8 井上と「刺客」三浦梧楼
9 日本政府内の井上の地位
10 陸奥宗光と井上の朝鮮問題「専決権」
11 角田房子本の歴史歪曲と問題点
12 三浦の役割と浪人
13 三浦の行動指針示達と大院君利用
14 日本人らの宮廷乱入と閔王后殺害の現場
15 駐韓外交官らの疑惑提起と日本政府の証拠隠滅・歪曲
16 日本政府の殺害主導者隠蔽と三浦首謀説の問題点
第4章 「露館播遷」と日露開戦
高宗のロシア公使館避難から日露戦争へ
1 日本の勢力回復と高宗の苦境
2 ロシアの対日対応と露館播遷
3 スペイエル、ウェーベルと露館播遷強行
4 露館播遷後の状況変化と高宗の内閣改造
5 日本の対露妥協外交と、朝鮮問題に関するロシア対日外交
6 ヴィッテの「回避・遅延」政策と高宗の還宮
7 還宮以降の日露対立と朝鮮
8 満韓政策をめぐるロシアの内部葛藤と日英の対応
9 日露戦争への道
執筆を終えて
訳者あとがき
出典を中心とする柱
閔王后殺害関連年表
5月 8th, 2010
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第3章 武装独立運動の展開
この章では:
・3・1運動以後の国内と中国で起こった独立運動の流れを把握する
・1920〜30年代武装独立闘争の展開の様相を理解する
・日帝の侵略戦争に直面した大韓民国臨時政府と韓国光復軍の闘争を理解する
1920年代に入って日帝の植民統治に抵抗する独立闘争が活発に展開された。国内では3・1運動のような粘り強い独立運動を再現するための努力が隠密に持続されてきたが、1926年になって6・10万歳運動として発展した。この運動を実質的に主導したのは学生層であったが、学生層の抗日独立闘争はその後、1929年の光州学生抗日運動につながった。
ハワイの独立闘争も活発化した。特に、義烈団と韓人愛国団の抗日義挙活動はわが民族の独立意志を国際社会に知らしめることに大きな役割を果たした。満州の独立軍は1920年ポンオドン戦闘と青山里戦闘で日本軍と戦い大きな成果を収めた。その後、様々な勢力に分かれていったが1920年代末には国民部と革新議会の二大勢力に再編された。
1930年代に入ると、満州地域の抗日闘争はしだいに共産主義者たちが主導するようになった。彼らは抗日遊撃隊を結成して日帝に抵抗した。中国の華北地方では朝鮮義勇軍が中心になった社会主義者たちが中国共産党と連帯して抗日闘争を行なった。重慶に移動した大韓民国臨時政府は韓国光復軍を創設して日帝に抵抗した。
主題1。国内の抗日民族運動
はじめに: ”朝鮮の民衆よ!我々の徹底的な仇は資本主義、帝国主義の日本だ。2000万の同胞よ!死を覚悟して戦おう!万歳、万歳!朝鮮独立万歳!”(6・10万歳運動の時の檄文)
3・1運動以後の抗日民族運動はどのように展開したのか?
6・10万歳運動
1926年一部の民族運動団体と学生たちが中心となって6月10日純宗の葬儀の日を機会にして示威行進を計画した。その中で社会主義者たちが推進した計画は警戒を厳しくしていた日本の警察によって事前に発覚してしまった。これに数多くの愛国人士たちが検挙され印刷された檄文を押収された。
しかし朝鮮の学生科学要求会をはじめとする学生たちは予定通り示威行進計画を推進した。6月10日、学生たちは日帝のものものしい警備下でも群衆の間で檄文を叫んで独立万歳を叫びながら街頭示威行進を行なった。このとき検挙された学生は200名にのぼった。
6・10万歳運動の経験で学生運動勢力は民族の独立に対する必要性をますます実感した。そして抗日民族運動の求心点として自分たちの役割を自覚するようになった。1920年代から読書会、秘密結社などの組織形態で発展してきた学生運動はすでに大衆的次元の抗日民族運動として発展した。
もう一歩すすんで学ぼう
私は朝鮮語で答えた
(写真) 当時の6・10万歳運動を報道した朝鮮日報の記事
(本分略)
光州学生抗日運動
1920年代各級の学校の学生たちは大小の抗日結社を組織し植民地教育に抵抗した。 学生運動は主に同盟休学という形態で起こされた。1920年代初め、同盟休学の主要争点は学内問題の解決日本人教員の排斥などであった。特に、日本人教員の民族的差別や侮辱的言辞を問題として起こった場合が多かった。
1920年代後半、学生運動はさらに組織化された。教育を受ける主体を朝鮮人に、教師も朝鮮人に、教育の言葉も朝鮮語に、教育の内容も朝鮮的なものに、変えなければならないと主張した。このように学生運動が発展していく中で、1929年11月、光州学生抗日運動が起こった。民族差別と日帝の植民地教育に反対して全羅南道の光州で始まった抗日デモはすぐに隣接した木浦と羅州に拡大して12月にはソウルでデモが起こった。
翌年、1930年1月新学期が始まると学生たちのデモは全国に広がって行った。全国各地の学生たちは街頭デモをしたり、同盟休学で日帝の弾圧に対した。学生たちは植民地教育の撤廃とともに”日帝打倒”、”民族解放”を叫んだ。民族の解放なくしては朝鮮人本位の教育も可能ではないことを知っていたためだ。全国的に
デモに参加した学校は194校で、参加した学生は5万4千名あまりに及んだ。さらにこの運動は満州の民族学校の学生や日本の留学生にも拡大した。
もう一歩すすんで学ぼう
学生の日はどうして11月3日なのか?
(本文略)
活動01:光州学生抗日運動劇化学習
次の資料を参考にして劇化をしてその結果を評価してみよう。
資料:1929年11月3日光州で起こった学生抗日運動
(本分略)
主題2.義烈団と抗日愛国団の活動
はじめに: ”
1月 20th, 2010
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第2章 3・1運動と大韓民国臨時政府
この章では
・ 3・1運動以前の国内の民族運動の流れを説明できる
・ 3・1運動の背景を理解してその歴史的意義を評価することができる
・ 大韓民国臨時政府樹立の背景と活動を把握する
1910年祖国が奪われると多くの愛国人士たちが海外に亡命した。彼らは主にわが同胞が多く住んでいた満州、沿海州、アメリカなどで独立運動の根拠地を準備して独立軍を育てることに力を注いだ。国内でも秘密結社を作って独立運動資金を集めて海外に送り海外の運動団体と連携を取った。
このような1910年代に民族運動は1919年の民族を上げての3・1運動として実を結んだ。3・1運動は国内はもとより海外の同胞社会まで拡大した。3・1運動は第1次世界大戦の急速な国際情勢の影響を受けることもあったが、究極的には日帝の支配を拒否する我々民族の独立精神の発露であって、さらに以後の民族解放運動の土台になった。
3・1運動の結果として上海に大韓民族臨時政府が樹立された。国内の各地に散らばっていた独立運動の勢力は力をあわせて作った大韓民国臨時政府は共和主義を採択し三権分立の原則に基礎を置いた憲法を公布した。しかしまもなくして独立運動の路線をめぐってさまざまな勢力の間での摩擦を口実のために、本来の役割を果たせないまま、長い間試練を経験しなければならなくなった。
主要年表
1911年 105人事件
1914年 大朝鮮国民軍団組織
1917年 大同団結宣言
1919年 3・1運動、大韓民国臨時政府樹立
1923年 国民代表協会結成
主題1.3・1運動以前の民族運動
はじめに: ”国を裏切って日本人のやからにくっついていく人々はどうしようもなく殺して家を燃やしてしまうしかなかった。公金はもともと大韓民国の国税だ。君主がなくしてしまったものを臣下が求めて書いたのに何が不法なのか?”(イビョンジョン イソクヨン公判記録)
イソクヨンが持っている民族運動の方向に対する考えは?
1910年代国内の民族運動
国権を奪われた後にも民族の独立意志は揺るがなかった。日帝は安悪事件、105人事件などを組織して国内に残っている啓蒙運動系列の人々を弾圧し、義兵に関する捜索と攻勢をいっそう強化した。これによって、
多くの愛国人士たちが海外へ亡命し、国内に残る人士たちは秘密結社を作り、抗日運動を継続した。
1912年、各地の儒学者たちが集まり、大韓独立義軍部を秘密裏に組織した。彼らは朝鮮総督府と日本当局に朝鮮から出て行くことを要求する一方、義兵戦争を計画した。1915年に大邱で作られた大韓光復会は満州に武官学校を設立するために軍資金を集め満州の独立運動団体と連絡を取った。
このほか、教師と学生が中心の秘密結社も作られた。1913年に平壌のスンイ女学校教師と学生たちが松竹会を作り資金を集めて海外に送ったり国内に潜入した会員に宿泊と食事のためのお金、旅費などを支給するなど独立運動を後援した。大成学校出身の学生たちも秘密結社の期成団(1914年)、自立団(1915年)を組織した。
(写真)105人事件で引っぱられrていく新民会関係の人々。(本文略)
もう一歩すすんで学ぼう
共和主義をうちたてた大韓光復会
(本文略)
1910年代の国外の独立運動
満州地域の独立軍基地建設は国権略奪直前に西間島にわたった新民会会員たちのために開始された。彼らはユハ県サモンボに自治機関である経学社と浮民団を作って、新興講習所(新興武官学校)をつくり独立軍幹部を養成した。北間島のヨンジョン村とミョンドンチ村も移住同胞を基盤として組織された間民会、中光団などの抗日団体が学校など教育機関を設立して民族教育を実施した。このほか、北満州のソ・満国境地帯である、ミルサンブに立てた韓興洞も独立軍基地だった。
沿海州のウラジオストックのシンハン村にも亡命した義兵と啓蒙運動家たちが力をあわせて勧業会を組織した(1911年)。勧業会はイサンソルとイドンフェを正・副大統領とする大韓光復軍政府という独立軍組織を作った(1914年)。沿海州地域の独立運動は一時日帝の支持を受けたツァーリ政府の弾圧により萎縮したが、ロシア革命以後、再び活気を取り戻し、鐘路韓族会中央総会が設立された。鐘路韓族中央総会は1919年2月に大韓国民議会と名前を変えて、独立運動の新しい方向を模索した。
米国地域でも労働移民で結成された同胞社会を基盤として抗日団体か生まれた。1909年にパクヨンマン、イスンマンなどが中心になって作られた国民会は翌年に大韓人国民会として組織を拡大し、独立運動資金を集め西北間島と沿海州の独立運動を支援した。さらに、パクヨンマンはハワイで大朝鮮国民軍団を組織して(1914年)、青少年を対象として軍事訓練を実施した。メキシコの同胞たちもスンム学校を建てて独立軍を養成した。
人物の横顔
欠席裁判で死刑判決を受けたイサンソル
(本文略)
1910年代国外の独立運動基地(活動1)
日帝の武断統治で国内から抗日闘争が起こると、民族運動家たちははやくから移住農民たちが住んでいたアムール川に面した西間島、豆満江に面した北間島、それとロシア領の沿海州に新しい独立運動基地を作った。
資料1. 国外同胞の動向(本文略)
資料2. 満州・沿海州の独立運動基地(地図)
主題2. 3・1運動の展開
はじめに: ”爆発したよ、爆発したよ、朝鮮独立の叫びが/10年を我慢してようやく爆発した/3000里の錦繍江山の2000万人の民族が/よみがえったよ、よみがえったよ。この一つの声に/万々歳、朝鮮独立万々歳/大韓万々歳、大韓万々歳”(3・1運動歌)
このように3・1運動に集まった階層の人々は我慢しなければならなかった理由はなんだろうか?
民族自決主義と朝鮮の熱望
1917年ロシア革命に成功したソビエト共和国のレーニンは世界に植民地、半植民地の民族解放を支援することを宣言した。つづいて1918年には米国の大統領ウィルソンも”世界平和と民主主義”を宣言し、第1次世界大戦の戦後処理のために開かれたパリ講和会議で”民族自決”の原則が示された。ウィルソンが言った”民族自決”はドイツのような敗戦国が支配していた植民地だけ適用されることになり、米国や日本のような戦勝国の植民地はその対象から除外された。しかしこのような事実をまたくしらないまま民族自決主義に関するニュースが伝えられた。これに、民族主義者たちを中心にしてパリ講和会議に民族の代表を派遣して朝鮮の独立を請願しようという世論が強く起こった。
1919年1月、上海の新韓青年団はパリ講和会議に送る独立請願書を作成し、キムキュシクをパリに代表として派遣した。つづいて上海に亡命していたいろいろな人々も独立運動の促進の為に国内をはじめとして、日本、満州、沿海州などの地に派遣された。
1919年2月8日東京で2・8独立宣言書が朗読された。日本への留学生たちが朝鮮青年独立団を組織した後、”独立宣言書”を作成してその日の午後に東京の朝鮮YMCA講堂で留学生総会を開きこれを発表した。国内では1919年1月ころより天道教、キリスト教、佛教そして学生の代表たちが秘密裏に集会を開いて大々的な万歳示威計画を準備した。
独立宣言の動き(活動2)
第1次大戦が終わった直後、独立運動の指導者たちの間では新しい国際情勢を朝鮮独立の契機として活用しようという動きが起こった。
資料1. 大同団結の宣言(1917)
(本文略)
資料2. 大韓独立宣言書(1918)
(本文略)
資料3. キミ独立宣言書(1919)
(本分略)
タプゴル公園で爆発した朝鮮独立の叫びの声
3・1運動は宗教家の人々を中心として準備された。全道教ではソンビョンフェ、チェリンなどが、キリスト教ではイスンフンなどが、仏教ではハンヨンウンなどが参加した。彼らは対外的に我々の独立を請願して、対内的には大衆化、非暴力などの原則に従って運動を展開しなければならないという方針を立てた。民族代表33人の名前で宣言された”独立宣言書”も秘密裏に準備され全国に前もって配布された。
1919年3月1日午後2時に近づくとタプゴル公園では数多くの学生と市民たちが集まってきた。民族の代表者たちはもともとタプゴル公園の群衆たちの前で独立宣言書を朗読する予定であった。しかし予想より多くの人々が集まってきてひょっとして不祥事が起こるかもしれないと心配し、計画を変えて仁寺洞にあった飲食店太和館に移動して独立宣言書を朗読した後、自ら投獄した。
民族の代表たちが姿を見せないと、タプゴル公園では群衆の中で一人の学生が前に進み出て、あらかじめ配布されていた独立宣言書を朗読した。宣言書の朗読が終わるとだれが始めたわけでもなく”朝鮮独立万歳”と叫んだ。
宣言式を終えたタプゴル公園の群衆は胸に大事にしまっておいた太極旗を力強く振り”朝鮮独立万歳”と叫びながらソウル市街へ出て行った。ちょうどそのとき高宗の国葬に参加しようと全国各地からやって来た人々も示威行進の隊列に合流した。夕暮れの頃からは市街地から郊外のほうに広がり演劇専門学校付近からは午後11時ごろまで示威行動が続いた。
(写真) 太和館遺跡地。太和館は当時仁寺洞にあった飲食店で、現在は高いビルの前に記念碑だけが立っている。
(写真) 1919年3月3日、高宗皇帝の葬祭行列。高宗皇帝が日帝に毒殺されたという上訴文が広がり3・1運動を激化させた一つの原因になった。
(写真) 鐘路で示威運動をする群衆に呼応して万歳を叫ぶ人々。タプゴル公園に集まった学生たちが太極旗をもって街路に出独立万歳を叫ぶと学生だけでなく市民たちも示威行動に参加した。
アウネ市場からウラジオストックまで
その間押さえられてきた朝鮮民衆の独立に対する熱望は一度火がつくとあっというまに全国に広がっていった。ソウルと平壌などの地では始まった万歳示威行動は周辺の農村地域にも拡散した。
3月10日ごろからは地方の郡単位でも示威行動が起き、3月末から4月はじめの間には全国が独立万歳の叫び声に覆われた。この過程で示威行動はしだいに組織的に行なわれるようになり、示威行動の様相も非暴力の枠に束縛されなかった。示威行動参加者の主流も農民と労働者に代わっていった。
独立運動が全国に拡散すると、あわてた日帝は憲兵警察、軍隊、消防隊、在郷軍人会などを動員して銃剣でこれを鎮圧した。示威行動がある場所では日本軍の無慈悲な殺戮が行なわれた。全国各地の監獄は万歳示威行動で逮捕された人々でいっぱいになり、ファソン、チェアムニをはじめ全国各地で日本軍の虐殺蛮行が実行された。継続した弾圧で3月1日に始まった万歳示威行動の火の手は4月末までに消滅させられた。
3・1運動は国内だけでなく国の外にも広がっていった。西北間島、中国の上海、ソ連のシべリアと沿海州、米国地域で万歳示威行動が相次いで起こった。日本でも東京の留学生たちが3・1運動蜂起の知らせを聞くや、万歳示威行動を展開し、大阪の同胞たちも続いて示威行動を広げた。
(写真) 大韓独立女性宣言書。3・1運動が起こる直前に満州にいた女性たちも宣言書を発表し、独立運動の隊列に女性が参加することを呼びかけた。
もう一歩すすんで学ぼう
フィラデルフィア韓人自由大会
(本分略)
(写真) 米国フィラデルフィア市街行進
3・1運動の歴史的意義
日帝の無慈悲な弾圧で挫折させられたが、3・1運動は武断統治を緩和させ、以後の独立運動組織的に展開できるような基盤を準備させた。さらに、第1次世界大戦に勝利した国家の植民地で起こった最初の反帝国主義民族運動として中国の5・4運動とアジアの諸民族の解放運動に影響を与えた。
しかし3・1運動は国を取り戻すことは実現できなかった。民族代表者たちは3・1運動を準備することで重要な役割を果たしたが、運動を最後まで貫くことはできなかった。かれらはさらにウィルソンの民族自決主義とパリ講和会議に過度の期待を抱いて国際情勢を楽観して強大国の助けを借りて独立を実現しようとした。
運動の過程で明らかになったこのような限界はその後、民族解放運動に重要な教訓を残した。3・1運動を通じて民衆の自覚と団結した力がなければ独立を達成できないという認識が広がった。民族の意志を一つに集め、独立運動に責任を持って導いていく統一された指導部が切実に要求された。その結果大韓民国臨時政府が上海で創立された。
3・1運動はその間、啓蒙運動系列と義兵運動系列、共産主義と復古主義などに分かれいた民族の熱望をひとつにまとめ、我が民族の独立の意志を国際社会に知らしめた。同時に、運動の過程で民衆の民族的、階級的覚醒が促進され、民族解放運動の基盤が拡大した。1920年代以後、民族解放運動の発展はこのような基盤の上に可能となったものだ。
文学の奥に
インドの独立運動家ネールが娘に送った手紙
インドの独立運動の指導者であったネールはなんども逮捕され約10年の間を獄中で過ごした。ネールは獄中から娘に書いた”世界史遍歴”で次のように話している。
”さわやかな朝の国という意味を持っている朝鮮は日本の銃剣の下に民族の精神を無残にも蹂躙されてしまった。日本は初めしばらくの間近代的な改革を実施したが、すぐに続いて馬脚を現し朝鮮民族は独立抗争を粘り強く続けた。その中でも重要なのは1919年の独立万歳運動だった。朝鮮の青年たちは空拳で敵に反抗して勇敢に戦ったのだ。
3・1運動は朝鮮民族が団結して自由と独立を求めて無数の人が死んでいって日本の警察に逮捕されひどい苦痛にあっても屈することがなかった崇高な独立運動だった。彼らはこのような理想の為に犠牲となり殉国したのだ。日本人に抑圧された朝鮮民族の歴史は実につらい暗黒の時代だった。朝鮮で学生の身分で優秀な成績で大学を出た若い女性や少女が闘争に重要な役割を果たしたことを聞いたら私も間違いなく深い感動を覚えるものだ。”(ネール、世界史遍歴)
万歳示威行動の火の手、そして日帝の無慈悲な弾圧
3・1運動はわが民族の強い抵抗に出くわした日帝が武断統治から文化統治に統治方法を変えることになった契機となった。ここで学んだ3・1運動の内容を整理してみよう。
資料1。 3・1運動の時期別示威回数と闘争形態(本分略)
資料2. 大邱監獄の収監者身分カード(本分略)
資料3. チェアムニ蛮行を許してください(本分略)
(写真) 廃墟となったチェアムニ教会の様子
主題3. 大韓民国臨時政府の樹立と活動
(活動4) 臨時政府の位置、どこにおくべきか?
3・1運動以後、各地で臨時政府が作られた。自然にこれら臨時政府に対する統合論議が起こり、その結果上海に統一した臨時政府がたてられた。資料を通じてその内容を知ってみよう。
(資料1) 臨時政府上海統合案(アンチャンホの提案)
(資料2) 上海統合反対案(ムンチャンポムの提案)
(資料3) 大韓民国臨時政府の樹立(地図)
大韓民国臨時政府旗の下にひとつに
臨時政府を樹立しようとする努力は3・1運動を契機として本格化した。1919年3月沿海州の大韓国民議会ではソンビョンフェを大統領とする政府組織を発表した。4月に上海ではイスンマンを国務総理とする政府案が、国内ではイスンマンを執政権総裁とする漢城政府案がそれぞれ発表された。
臨時政府が新しいところで発表されると自然と一つの政府を樹立するための統合運動が起こった。沿海州と上海側は漢城政府案を受容した。しかし統合の過程で臨時政府をどこにおいたらいいのかという問題で陣痛を経験することになった。臨時政府の位置問題は独立運動方法論とからみあっていた。外交論の立場に立っていた人々は臨時政府を上海に置こうと主張する一方、独立戦争を重視していた人々はこれに反対した。結局臨時政府の位置を上海にするかわりに沿海州のイドンウィなど一部勢力が上海議政院に合流する形態で統合した。
臨時政府は大統領選定問題でまた一つの陣痛を経験した。イスンマンが大統領に推薦されるとシンチェホ等は彼が米国の大統領に委任統治請願書を送った事実を聞き、反対するようになった。
このような批判世論にも上海議政院は1919年9月共和主義と三権分離の原則に基礎を置いた憲法を公表した。11月にはイスンマンを臨時大統領とし、イドンウィを国務総理にする大韓民国臨時政府が船出した。
もう一歩すすんで学ぼう
大韓民国臨時憲章
(本分略)
大韓民国臨時政府の活動
大韓民国臨時政府は資金と国内情報を集め各道との連絡業務のために連通制を実施した。連通制は、国内の道・郡・面に督弁、郡監、面監を置いて間島には総弁を置いた秘密行動組織だった。臨時政府はこの組織を通じて独立運動資金を調達した。さらに、海外に居住する同胞に愛国公債を発行して独立運動資金を募集した。しかし、各道と連絡業務のための平安道、ハムギョン道、黄海道など主に漢江以北の地域に設置されていた連通制組織は1921年に日帝に見つかってしまいほとんど壊滅してしまった。
大韓民国臨時政府は書類編纂部を置き、韓・日関係の資料集を発行し、国際連盟に提出し、機関紙である独立新聞を発行した。臨時政府が何よりも力を入れたのは外交活動だった。このために臨時政府は新韓青年団の代表としてすでにパリに行っていたキムキュシクを全権大使として任命しパリ講和会議に独立請願書を提出するようにした。米国では欧米委員部を置いて国際連盟とか各種国際平和会議で朝鮮の独立問題を提起することもした。
人物の横顔
アイルランド人のショー、独立運動を助ける
(本分略)
しかし、第1次世界大戦後、強大国らが開催した国際会議は日本が戦勝国として参加していたために朝鮮問題は最初から関心の対象とはならなかった。したがって臨時政府の外交活動は米国など強大国の外面によって満足な成果をあげることができなかった。
外交活動が成果をあげることができなくなると臨時政府に批判的であったシンチェホなど中国国内の勢力と、満州、沿海州の武装勢力は独立運動戦線の統一と独立運動の方向転換の為に国民代表会議を開こうと主張した。
1923年1月から6月の間に開かれた国民代表会議では国内外の様々な独立運動団体の代表100余名が参加した。しかし会議参加者たちは臨時政府を排除して新しい政府を樹立しようとする創造派と臨時政府の組織だけ変えようとする改造派に分裂した。会議は最後に二つの立場を縮めることができないまま決裂してしまった。国民代表会議に参加していた多くの勢力は失望してばらばらに散らばった。
1925年改造派内閣の臨時政府は不法な外交活動をはじめて大統領イスンマンを弾劾・罷免してパクウンシクを第2代大統領に推薦した。すぐに続いて大統領制を国務令制に変えるなど様々な努力を行なったが内閣も構成することが困難なくらいに勢力が弱体化した。
このように独立運動勢力は分裂して臨時政府が諸機能を行なうことができなくなると、中国国内で活動していた独立運動勢力の間では民族運動の力量をひとつに集めるための”民族唯一団”運動が展開されることになった。その後、中日戦争が起こると日帝の中国侵略が本格化して、臨時政府は蒋介石国民党政府に従って中国各地に移動したが重慶に定着した(1940年)。
(写真) 重慶の最後の臨時政府庁舎。中の瓦を積み上げたところに1995年光復50周年にあわせて復元した。
もう一歩すすんで学ぼう。
国民代表会議の招集
(本分略)
朝鮮独立万歳、その叫びのゆかりの地を訪ねて
(写真) 独立記念館全景
(写真) アウネ市場
(写真) ユガンスン御堂内の追慕閣
(写真) 3・1運動蜂起を再確認させるのろしをあげた場所
(写真) 復元したユガンスンの生家
12月 30th, 2009
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(写真)(国旗と韓国独立連盟というスローガンの書かれた横断幕を持って雨の中を行進する人々のようす)
フィラデルフィア市街行進(1919年)
第1章 日帝の植民統治と民族の受難
第2章 3・1運動と大韓民国臨時政府
第3章 武装独立戦争の展開
第4章 社会的経済的民族運動
第5章 民族文化守護運動
(写真) 独立記念館(現代)
光復歌
2000万の同胞たちよ立ち上がれ
立ち上がって銃を持って刀を持て
失われたおまえの祖国とおまえの自由を
仇の手の中で血で探すように
老若問わず、男も女も
幼い子供たちも立ち上がれ
韓国の山川の雨露を受ける草木までも
墓の中に眠っている霊魂までも
沸くような血で広く青山をぬらし
国中の川の水を赤く染めよ
軍国の大きな仇をすべて追い出して
自由の銃声が鳴るときまで
第1章 日帝植民統治と民族の受難
この章では:
・第1次世界大戦戦後の問題がどのように処理されたのかを知る
・露・日戦争から国権収奪までの日帝の侵略過程を分析・整理することができる
・日帝の植民統治政策の内容と特徴を段階別に説明することができる
・日帝の植民地時代に人的・物的資源の収奪の内容を把握する
20世紀に入って、植民地を獲得するための帝国主義列強間の競争はますます熾烈になり、結局は第1次世界大戦が起こることとなった。戦争後、設立された新しい国際秩序であるベルサイユ体制下で、我が民族は日本からの独立を期待したものの、日本が戦勝国であったために、実効を得ることができなかった。3・1運動が起こると、日帝は憲兵・警察統治という従前の植民統治方式を改めて文化統治を標榜した。しかしこれは植民統治の本質を隠して我が民族を分裂させるためのものであった。
1929年に発生した経済大恐慌は国際情勢に大きな変化を引き起こし、ナチズムとファシズム、そして軍国主義の登場をもたらした。日本帝国主義は1931年に満州事変を引き起こし、大陸侵略の踏み台を準備した。
続いて、中・日戦争と太平洋戦争を起こし、本格的に侵略の路をすすんでいった。このような戦争は当時、日本の植民地であった我が国はもちろんのことアジアの多くの民族に途方も無い苦痛と犠牲をもたらした。
主要年表
1905 ウルサ条約強制締結
1910 韓・日 併合
1912 土地調査令公布
1920 生産米増産計画実施
1937 皇国臣民の誓い強要
1939 国民徴用令実施
主題1.20世紀前半の世界
はじめに: ”朝鮮は独立を希求し「独立することができなければむしろ死んだほうがましだ」と言った。すべからく国家が失われて国土を譲り渡さなければならない問題が目の前に切迫していても国民が大きな決心をして
振り切って立ち上がることがなければ、これは20世紀の劣等民族だといって人類の隊列に立っていたと言うことはできない(学生全部の天安門宣言、1919年)
中国の5・4運動に影響を与えたわが国の歴史的事件とは何だろうか?
第1次世界大戦、ベルサイユ体制で終結する
第1次世界大戦以後、世界平和の為に民族自決主義が提唱され、国際連盟が誕生したが、戦勝国の利害関係で一部の弱小民族だけが解放されることになった。資料を通じて考えてみよう。
(資料1) ウィルソンの14か条の原則
第1条 平和協定は公開して締結されねばならず、条項は公開しなければならない。いかなる種類の国際秘密協定も結んではならず、外交関係は率直に公開的に結ばなければならない。
第5条 植民地の主権問題を決定することにおいてこの問題に関連する住民たちの利害関係が将来にその主権を決定するように政府の正当な主張と同じ比重で考慮されなければならない。ただし、原則を厳格に遵守してすべての植民地の主張を自由に公開して、どちらかの一方に少しも偏ることなく扱わなければならない。
第14条 強大国と弱小国とを問わず、諸国の相互間に政治的独立、領土の相互保障を目的とする国家間の
連合組織が特別な規約のもとに編成されなければならない。
資料2. 第1次世界大戦後のヨーロッパ(新たな独立国を示す地図)
戦後世界秩序の再編
列強の植民地争奪競争の結果起こった第1次世界大戦はドイツの無条件降伏で幕を閉じた(1918年)。
1919年に第1次世界大戦の戦後処理の為に戦勝国たちはパリで講和会議を開いた。パリ講和会議は米国の大統領ウィルソンが提唱した14か条の原則を土台として展開した。しかしその結果は各国の利害関係が絡み合って敗戦国に対して過酷な懲らしめの性格を帯びていた。
ウィルソンの民族自決主義の原則に従ってポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フィンランド、ハンガリーなどが独立した。しかしアジアとアフリカでは民族自決主義原則が適用されなかった。これに戦勝国の支配下にあった大多数の弱小民族は引き続き試練を経験することになった。
第1次世界大戦後、多くの国で民主主義が大きく発達した。ドイツでは民主的な憲法を整えたワイマール共和国が誕生した。他の国々も選挙権の制限をなくして女性たちにも参政権を与えて男女間の平等な普通選挙を実施した。
一方、1917年に起こったロシア革命は世界史の新しい転換点になった。ロシア革命は資本主義体制に対する挑戦であると同時に国際共産主義運動の新たな出発点であった。ソ連はコミンテルンを結成して各国の共産主義勢力と協力して共産主義運動を拡散しようと努力した。同時にアジアを始めとする世界の弱小民族の独立運動に対する支持を宣言して、これらの民族に対する影響力を拡大しようとした。
もう一歩すすんで学ぼう
ロシア革命
(本文略)
中国の民族運動の展開
1894年孫文が中心になって組織した興中会から始まった中国の革命運動は1911年武昌で蜂起した辛亥革命で結実を見せた。その結果、清の王朝が倒れて孫文を臨時大総統とする中華民国が宣布された(1912年)。
パリ講和会議が開かれると第1次世界大戦の参戦国であった中国はドイツが持っていた山東半島の利権が回収されて、”21か条の要求”が廃止されることを期待した。ところが、英国、フランス、イタリア、ソ連はドイツの利権を日本に移すという協約を結んだ。怒った中国の人民は1919年5月4日、北京の大学生を中心として21か条の撤廃と親日官吏の罷免などを要求して大々的な示威運動を広げた。この5・4運動は反帝国主義、反軍閥、国権回復をめざした全国的な民族運動として発展した。
この頃、中国では共産主義思想と運動が急激に拡大して1921年に中国共産党が正式に成立した。軍閥の乱立で分断されていた中国を統一するために孫文の国民党と中国共産党は1924年に手を取り合った(第1次国共合作)。国民党が北伐を始めると中国共産党もこれを支持した。しかしその後、労働運動と農民運動が急速に発展すると左派の影響力拡大を憂慮した国民党は反共クーデターを強行して、第1次国・共合作は崩壊した(1927年)。
孫文が死んだ後、その後を引き継いだ蒋介石は北京の軍閥政府を打倒して南京に国民党政府を樹立した(1928年)。続いて共産党に対する攻撃に出た。中国共産党は国民党政府軍の強力な攻勢にもちこたえることができず、1934年10月から山を城として大長征を断行した。1937年日本が中国を侵略すると、分裂していた二つの勢力はふたたび第2次国・共合作を結んで抗日統一戦線を形成した。
人物の横顔
中国の国父、孫文
(本文略)
主題2.日帝の侵略と国権の略奪
はじめに: ”ああ、豚のような政府の大臣たちが国を売った。4千年の国土と5百年の宗家を他の国へ譲り渡して2千万の同胞は奴隷なってしまったよ!ああ、無念だ。わが2千万の同胞が生きるか死ぬか?同胞よ!
どうしたら我々のこの国の土地をたたいて泣かずにおれようか?”
(チャンジヨン)
チャンジヨンはこのように悲痛な思いをしたこの日はいつだろうか?そしてどうしてこのように悲痛な思いになったのだろうか?
露・日戦争と日帝の統監府設置
韓半島をめぐって熾烈な勢力争いをしていたロシアと日本は結局戦争に突入した(1904年)。両国間の戦雲が漂い始めると、大韓帝国はこれに巻き込まれまいと局外中立を宣言したが効き目が無かった。日帝は戦争を起こしてからわずか15日で強制的に韓日議定書を結び(1904年2月)、軍事戦略上必要な場所を好き勝手に使用した。
情勢が有利になると日帝は第1次韓日協約を締結し(1904年8月)、外交と財政分野に外国人顧問を置くようにさせた。そして日本人目加田を財政顧問とし、親日米国人スチーブンスを外交顧問として任命した。続いて軍部、内部、学部、宮内部、など各部にも日本人顧問を置いて内政を干渉する顧問政治を始めた。
一方、英国と米国は戦争が日本に有利に展開すると、日帝の韓半島独占支配権を認定してロシアとポーツマス条約を締結するよう助けた。すでに邪魔になるものがなくなった日帝は高宗皇帝と政府の大臣たちを威嚇してウルサ条約を締結し、統監府を設置した。統監府は条約に規定された外交権だけでなく、内政も管掌した。事実上植民地統治が始まったことに違いなかった。高宗皇帝は条約を無効にするために国民たちが抵抗することを支援し、ハーグ万国平和会議に特使を派遣したが(1907年6月)、冷酷な国際秩序で受け入れてもらえなかった。
もう一歩すすんで学ぼう
外国人が見たウルサ条約前夜の日本軍
(本文略)
日本、国際的に韓国の支配の認証を受けた
露・日戦争で日本が勝利することができた原動力はアメリカと英国が支援してくれたからだ。次の資料を通じてアメリカ、英国の韓半島政策を理解しよう。
資料1.桂・タフト密約(1905年7月)
一つ: フィリピンはアメリカのような親日的な国が統治することが日本にとって有利だから、日本はフィリピンに対していかなる侵略的意図ももってはならない。
二つ: 極東の全般的平和を維持することは日本、アメリカ、英国の3カ国政府の相互了解を達成することが最善の道であって事実上唯一の手段だ。
三つ: アメリカは日本が大韓帝国の保護権を確立することは、露・日戦争の論理的帰結であって極東平和に直接寄与することを認定する。(アメリカ歴史資料集)
(絵) 露・日戦争風刺画。英国とアメリカが日本を後援する様子を風刺している。
資料2.第2次英・日同盟(1905年8月)
第3条 日本国は韓国で政治上・軍事上および経済上の卓越した利益を擁護増進するために正当で必要だと認定する指導管理および保護措置を韓国に執行する権利を有する。ただし、該当措置は常に各国の商工業に対して対する機会均等主義に違反してはならないことを要する。(日本外務省編、日本外交年表と主要文書)
(絵) 英日同盟記念はがき(1905年)。英国の少女が天皇を象徴する菊の花を持って、日本の少女は英国の国花であるバラの花を持って手をつないでいる。
資料3.ポーツマス条約(1905年9月「)
第2条 ロシア帝国政府は日本帝国が韓国で政治・軍事上ならびに経済上の卓越した利益をもっていることを認定して日本帝国政府が韓国で必要だと認定する指導保護ならびに管理の措置をするとき、これを阻止したり干渉しないことを約束する。(国会図書館立法調査局、旧韓国末条約)
資料4.ウルサ条約(1905年11月)
第2条 日本国政府は韓国と他国間に現存する条約の実行を完遂する任務を担当し、韓国政府はいまから日本国政府の中継を経ることなしには国際的性質をもついかなる条約や約束を結んではならないことを互いに約束する。
第3条 日本国政府はその代表者として韓国の皇帝陛下の下に1名の統監をおいて統監はもっぱら外交に関する事項を管理するためにソウルに駐在し、常に韓国皇帝陛下に会うことができる権利を有する。
(国会図書館立法調査局、旧韓国末条約)
(写真)統監府。ウルサ条約に従って韓国の外交権を剥奪した日帝が外交業務を管理するという口実で南山に設置され、外交業務だけでなく内政全体に干渉した。
勤政殿に日章旗がひるがえり
日帝はハーグ特使事件を口実にして高宗皇帝を強制的に退位させ、韓日新協約を締結し内政を確実に掌握した。さらに軍隊を解散し(1907年)、司法権と警察権まで奪った。
邪魔するものも無く国権を強奪した日帝を邪魔したのは義兵抗争と啓蒙運動であった。特に義兵抗争は日帝に大きな危機感を与えた。これに、日帝は大規模な兵力を動員して義兵を討伐する一方で新門地法と保安法を作って言論・出版の自由を禁止し、集会と結社を防いだ。
このような日帝の弾圧にあってわが民族は粘り強い抗戦を続けた。しかし一部の親日人士と団体はむしろ国と民族を日帝に売り渡すことに力を注いだ。特に、日進会は高宗皇帝の強制退位後、親日世論醸成策動などの先頭に立った。はなはだしきに至っては国を日本に併合しようとする各種請願書とか声明書を発表することもした。これは韓国人の世論を歪曲して国際社会で韓国の支配を認定してもらおうという日帝の術策から出たものであった。
日帝は武力弾圧で韓国人の抵抗が弱くなってきたと判断すると、1910年8月29日韓日併合条約を公布した。これで我が民族は日帝の完全な奴隷状態におちることになってしまった。
(写真) 勤政殿の前に掲げられた日章旗。朝鮮の正宮であった慶福宮の勤政殿の前に日章旗が掲げられた。
もう一歩すすんで学ぼう
日進会、併合を請願する
(本文略)
歴史の車輪
ウルサ条約と併合条約は成立していなかった
(本文略)
(写真) 題目も批准書面もないウルサ条約原本
(写真) 最後の王室
左側より、皇太子イウン、純宗皇帝、高宗皇帝、純宗妃、トクへ翁主
主題3.植民統治体制の構築と展開
はじめに: 路で遊んでいた子供たちが刀剣をもった日本の巡査が近づいたらすぐさま姿を隠した。”泣いたら巡査が捕まえて行くよ”との言葉に泣いていた子供は泣くのをやめた。どうして子供たちはこのように巡査を恐れていたのか?
強圧的な植民地支配、憲兵警察支配
国権を完全に奪った後、日帝は韓日併合が朝鮮と日本の2つの国の幸福を増進して東洋平和を永久に確保する路だと宣伝した。1910年統監に来た陸軍大臣寺内正毅が第1代総督になってその年の10月に朝鮮総督府が設置された。朝鮮総督は立法、司法、行政ならびに軍事権まで一手に握った植民統治の最高権力者だった。
朝鮮総督のしたには行政業務を総指揮する総務統監を置いて、行政機関、警察機構、裁判所など抑圧機構と朝鮮銀行、鉄道局、専売局、臨時統治調査局など経済収奪機構を設置した。日帝の統治を賞賛して宣伝するために各種教育機構をおく一方、植民統治にふさわしく改編した。朝鮮総督府の直属諮問機関である中枢院はイワンヨン、ソンビョンジュン、キムユンシクなど親日派と日本の操り人形であった大韓帝国時期の高官たちをあてた。
地方行政組織も植民統治に適するように改編された。道、府、郡にはそれぞれ道庁、府庁、郡庁を設置してその下に最下級行政単位として面を設置して全国的な統治体制を構築した。そして道知事、府伊、郡守はもちろん、面長や書記にいたるまでほとんどすべて地方の官吏たちを日本人と親日的な人々に変えた。
(写真) 軍隊の護衛を受け赴任する寺内。寺内は1910年3代朝鮮統監に任命された後、続いて初代の総督となり武断統治を敢行した。
(写真) 朝鮮総督府。併合以後日帝は南山にあった統監府の建物をそのまま朝鮮総督府庁舎として使用したが、1926年慶福宮に新しい庁舎を建てて朝鮮総督府を移転した。
日帝は植民統治組織の改編と同時に治安確保という口実で憲兵警察制度を実行した。憲兵警察制度とは軍隊の警察である憲兵が警察を指揮し、一般の警察業務まで関与するという制度だった。
憲兵警察は警察の一般業務はもちろん検事事務代理、犯罪の即決処分、民事訴訟調停、山林監視、徴税事務協力など一般行政事務まで一手に引き受けて処理した。彼らは”犯罪即決令”、”警察法処罰規則”に従って、正式に法の手続きや裁判を経なくても朝鮮人に罰金を課したり拘留などを処罰することができた。しかも甲午改革の時に非人間的処罰といわれ廃止されたチ刑まで復活させた。憲兵警察の確立によって日帝は全国各地に警察官署と憲兵機関をくもの巣のように設置して朝鮮人を監視した。
活動03 植民地支配の第1段階、憲兵警察の統治
1910年代憲兵警察は行政・司法にかかわる業務だけではなく言論指導、社会風俗の改善、信用調査、経済的要求などすべての権限を持ってわが民族の政治、社会、経済ならびに日常的な生活まで抑圧した。その実情を知ってみよう。
資料1.警察法処罰規則(1912年)
次の各号に該当するものは拘留または過料に処する。
(本文略)
資料2.朝鮮笞刑令と実施細則(1912年)
(本文略)
3・1運動の後、日帝は憲兵警察の統治に替わって文化統治という新しい支配政策を打ち出し、海軍大臣出身の斉藤実を新しい総督に任命した。第3代朝鮮総督の斉藤実は朝鮮人の文化の伸長と民力推進をもくろむとして朝鮮人の言論、出版、集会、結社の自由の許容、朝鮮人が経営するハングル新聞刊行の許容などを約束した。
しかしこれは、朝鮮人の不満をなだめようとする日帝の欺瞞的な術策だった。憲兵警察署を普通警察署と変えて警察業務と軍隊業務を分離したものの、弾圧と監視はむしろさらに強化された。1925年には治安維持法を作って反帝国主義と独立思想を弾圧する道具とした。
このほかにも日帝は地方制度を改編して道評議会と府、面協議会などを設置して一部の地域で選挙制を導入した。しかしきわめて一部の地域の上層資産家たちにだけしか選挙権が与えられず、残りの大多数の地域である面では選挙制ではなく任命制が実施された。この機関はただ単なる実権のない諮問機関にすぎず、本当の地方自治とはかけ離れていた。
日帝は教育制度も変えて、いわゆる第2次朝鮮教育令(1922年)を発表して日本人と朝鮮人を同等に教育するようにさせた。これに続いて京城帝国大学を設置し(1924年)、全体の学生の約3分の1程度を朝鮮人に割り当てた。さらに初等教育と実業教育を若干強化したが、1920年代末に、実際普通教育を受けることのできた朝鮮人の子供たちは約18%に過ぎなかった。
このとき世界では
日本の大正デモクラシーと植民統治
(本文略)
(写真)新婦人協会。1920年代に創立され女性の政治参加、社会的権利の向上に力を注いだ。
文化統治の欺瞞性
3・1運動は以後、日帝の植民統治にも大きな変化をもたらした。その変化と実際の目的を知ってみよう。
(資料1) 親日派を育成しなければならない
(本文略)
(資料2) 警察役人数の増加
(本文略)
(資料3) 文化統治の時期の言論弾圧
(本文略)
戦時体制下の民族抹殺政策
1930年代になって大陸侵略戦争を本格化させながら日帝は朝鮮に対する植民地支配をいっそう強化した。そのような方策の一つに朝鮮人の社会主義思想を徹底的に統制した。1930年から1935年の間に”思想事件”として逮捕された人は約2万名にも達した。
日帝は朝鮮民族を皇国の臣民に作り上げようとする、いわゆる”皇国臣民化政策”を実施することで朝鮮の民族性を絶対に抹殺しようとした。こうして日帝は1937年から”皇国臣民書写”という忠誠誓約書を作り、覚えるように強要した。これとともに全国のすべての邑、面に神社を作って朝鮮人に強制的に参拝させた。
学校教育と官公署では朝鮮語の使用が禁止されてかわりに日本語を使用するようにさせた(1938年)。朝鮮人の民族性を奪う最もいい方法は朝鮮人の精神が込められている朝鮮語を使用できないようにすることだと考えたためだ。1941年になると学校で朝鮮語の学習は完全に廃止された。これに先立つこと1940年にはすでに親日言論に変質した東亜日報、朝鮮日報まで強制廃刊させられるなど、ハングルを使用するすべての新聞と雑誌をなくしてしまった。
このほかに1940年から我々の姓と名前を日本式に変えるように強制した。1941年には小学校を”皇国臣民学校”という意味を持つ国民学校に名前を変えて教科編成と内容を変えた。このような様々な政策は朝鮮民族を抹殺して朝鮮民衆に天皇崇拝思想を植え付けて完全な日本人に作り上げた後に、侵略戦争に利用しようということにその目的があった。
(写真) 皇国臣民書写碑。日帝は皇国臣民書写が刻まれた碑石を家の中にまで置いて覚えるようにさせた
(写真) 皇国臣民書写を覚える学生たち。日帝は”我々は大日本帝国の臣民です。我々は心を一つにあわせて天皇陛下に忠誠を誓います”などの皇国臣民書写を覚えるようにさせた。
(写真) 南山朝鮮神宮(現在の南山植物園の場所)。日帝は1面に1神社を設置する政策を推進し、全国各地に1000あまりの神社を建てて、参拝を強要した。
日帝は我が民族をどのように抹殺しようとしたのか?(活動05)
日帝は太平洋戦争の勃発後、人的物的資源だけでなくわが民族の文化と伝統を完全に抹殺しようとした。
その内容を知ってみよう。
(資料1.)日本と朝鮮は一つだ
(本文略)
(資料2.)朝鮮思想犯保護観察令
(本文略)
(資料3.)総督府が日本式姓名を強制した具体的な方法
(本文略)
(写真) 内鮮一体ポスター(左側)。日帝は朝鮮の人々も日本の人々と同じだと韓民族の民族精神を抹殺しようとした。
(写真) 日本式姓名強要(右側)。改名手続きを明らかにするために京城府庁戸籍課へ列を成して立っているようす。
主題4.経済収奪と民衆の生活
はじめに: ”多くの財産がどうなるか/こじきの分際でどうして言うことができよう/畑はつぶされて道路になって/家はつぶされて駅になった。”(新アリラン節)
日帝の時代に民衆たちの生活をこのように困難にさせた要因はなんだったのか?
朝鮮の土地を奪った土地調査事業
朝鮮総督府は併合直後、臨時土地調査局を設置したが、続いて1912年には”土地調査令”を公布し、本格的に土地調査事業を行なった。日帝はこの事業が地租を公正にして土地所有権を保護して、土地の生産力を高めるものだと宣伝した。しかし実際には土地所有権を新たに法的に確定して地租を安定的に確保することにその目的があった。さらに、土地の売買と抵当を自由にすることによって日本人が安く土地に投資することができるようにした。
土地調査事業は所有権調査、土地価格調査、地形・地目調査などで構成されていたが、この事業で地主は朝鮮総督が定める期間に土地を申告するように規定していた。
1918年に土地調査事業が終わるときに事実上農民の所有していた多くの農地と公共機関に所属していた
土地、村または家庭の共有地として名義上の主人を掲げるのが難しい同宗・門中の土地の相当の部分が朝鮮総督府の所有になってしまった。この過程で多くの紛争が起こったが、その解決は日帝に有利な方法で実行された。朝鮮総督府はこのようにして奪った土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする植民会社や日本人に安値で売り払ってしまった。
土地調査事業で農民たちの生活はいっそう困難になった。従来農民たちは土地の所有権とともに耕作権も保有していた。しかし日帝は地主の所有権を擁護しても慣習上の耕作権とか永久賃貸小作権と同じもともと小作農民の権利は全く認めなかった。さらに従来許容されていた農民たちの入会権も奪ってしまい、土地に対する農民たちの権利は従前に比べて大きく弱まった。
(写真)東洋拓殖株式会社。1908年日帝が日本人の朝鮮移民を後押しするために立てた国策会社として日帝下の土地略奪の総本山であり、最大地主だった。
だれのための土地調査事業だったのか?(活動6)
土地調査事業の結果、今までに実際に土地を所有していたり耕作していた数百万の農民が土地に対する権利を奪われて、永世小作農、焼畑農民、さらには自由労働者に転落していった。
(資料1.) 土地調査令(1912年)
(本文略)
(資料2.) 朝鮮総督府の租税構成比(グラフ)
1910年代には租税の相当部分が地租で充当されていたが、1920年代からは消費税(間接税) の比率が拡大している。
(資料3.) 東洋拓殖株式会社の朝鮮移住民募集広告
(本文略)
(資料4.) 東洋拓殖株式会社の所有地と朝鮮内の日本人農業移民の推移
(グラフ)
米の収奪を目的とした産米増産計画
第1次世界大戦中、日本は戦争物資を売って莫大な利益を獲得した。しかしその過程で多くの農民たちが都市の仕事場を求めて農村を後にした。その結果、米の価格が急騰して一時的な食糧不足状態を迎えた。
日帝は足りない米を朝鮮で確保する目的で産米増産計画をたてた。土地と水利施設、種などの改良を通じて食糧生産を大幅に高めて日本にもっと多くの米を持っていき、わが国の農民の生活も安定させようというのが目的だった。米の生産量はある程度は向上したが、もともとの計画通りには推進することができなかった。
反対に、日本への米の搬出量はずっと増え続け、1934年にはほとんど目標量にほぼ達した。これにより、朝鮮の中では食糧が不足して満州から入ってきた雑穀などで食糧を充当することになった。反面、品種改良、水利施設改善費用などを負担することになった農民たちはもっと困難な状態になった。
活動7 朝鮮を日本の食糧供給地とした
産米増産計画は日帝下の朝鮮の農村経済に大きな影響を与えた。資料を通じて産米増産計画の本質を理解しよう。
(資料1)朝鮮産米増産計画の概要
(本文略)
(資料2)産米増産計画と農民経済
(グラフ)
(写真) 日本に持っていかれる米が積まれている仁川港のようす
日本資本の朝鮮支配
1920年、日帝は会社令を撤廃して日本資本が朝鮮に自由に出入りできるような道を開いた。
このとき、朝鮮に入ってきた日本資本は製糸、綿紡績、食料品など主に中小の資本であったが、三井、三菱などの大資本も鉱業など一部の産業に投資した。
日帝は1923年に他の国の商品には関税の障壁を課すかわりに日本商品の朝鮮進出には関税を撤廃して商品輸出の道を拡大してあげた。1920年代朝鮮に主に入ってきた織物と衣料、機械などの商品は朝鮮の脆弱な工業基盤に打撃を与えた。このほかにも新銀行令を発表し(1927年)、朝鮮人が所有する銀行を強制的に合併させ朝鮮銀行に隷属させるなど、産業全般に対して支配を強化した。
1920年代に朝鮮全体の会社の納入資本の中で日本人の会社の資本が70%程度で圧倒的比重を占める一方、朝鮮人の会社の資本は10%にも満たなかった。このような中でも一部の朝鮮人企業がしだいに成長していった。その代表的な例が地主出身のキムソンスが作った京城紡績株式会社であった。
(写真) 1920年代の朝鮮銀行。1909年韓国銀行を設立したが、併合の翌年の1911年に朝鮮銀行と名前を変えた。
もう一歩すすんで学習しよう
朝鮮人商圏の中心に位置を占める花信百貨店(写真)
(本文略)
朝鮮を侵略戦争の基地に・・・
日帝は中日戦争を始め(1937年)、中国本土に対する本格化させた。そしてハワイの真珠湾の米国海軍基地を奇襲攻撃することによって太平洋戦争を始めた(1941年)。戦争が拡大するにつれわが国は日帝の侵略戦争のための兵站基地として利用された。人的・物的資源の収奪がいっそう強化されて、民族運動に対する弾圧も熾烈になった。
日帝の収奪は戦争末期になるにつれてさらにひどくなっていった。各種税金を新設し、生計の維持も難しい民衆をさらなる困難に落としいれ、慰問金品を集めたり、国防献金を取り立てた。一部の実業家は飛行機を献納するなどこれに積極的に呼応した。しかし、これだけでは戦争に必要な物資と武器製造の原料を調達することができなくなると、くず鉄と銅製品も強制的に集めて学校の鉄門と鉄の欄干を持ち上げて農機具と釜を奪っていった。はなはだしきに至っては真鍮の器、匙と箸、祭器、と仏像まで持っていき飛行機と弾丸を作ることまでした。
活動8. 植民地産業化、その実情は?
1930年代に日帝の植民地産業化の背景とわが民族にもたらした影響について理解しよう。
(資料1) 南面北洋政策
(本文略)
(資料2) 植民地工業化
(本文略)
国のない悲しみでお腹が一杯の悲しみ
日帝は植民地経済政策が展開するにつれて朝鮮民衆の生活はますますひどくなった。地主たちは朝鮮総督府の支援のもとで50%であった小作料をもっと多く受け取るようになり、自分たちが処理しなければいけない水利組合の運用費用や肥料代を小作農たちに負担させることもあった。一部の資本家たちも日本の警察の援助の下に労働者を収奪した。
多くの農民たちが秋の刈り入れをしても小作料を出したり農業費用を控除したら、その年の冬を越すことも難しいほどになってしまった。農民たちは不足した生活費を補充するために農繁期に付近の工事現場や鉱山などで日雇い労働をした。日帝のために道路や鉄道建設現場に狩り出されることもあった。しかしいくら一生懸命仕事をしても受け取る賃金は僅かな額であった
1930年代に入ると日帝は農民経済の安全化を大義名分にして農村徴用運動を始めた。しかしそれは農民たちの反発をなだめることによって農村統制を強化するために考え出された取り繕いの政策だった。
都市の外れとか川べりなどでは貧民たちのぼろやが現われた。しかし都市の労働者も貧困なことは同じであった。我慢できなくなった一部の人々は放浪者になったり、満州、沿海州、日本などの地に出て行った。
(写真) キムジェトンジン水利組合
(本文略)
歴史の現場で
日帝の収奪が全国的に展開された農村の現実
(本文略)
(写真)
主題5.戦争動員と日本軍”慰安婦”徴用
侵略戦争のための労働力収奪
日帝は1937年日中戦争を引き起こし、続いて1941年にまた太平洋戦争を起こすことで戦争はアジア全域に拡大した。この無謀な戦争を行なうためにいわゆる国家総動員令を実施した。何より戦闘兵力が急を要した日帝は1938年に支援兵の形態として朝鮮の青年たちを侵略戦争に狩り出した。
1943年には学徒支援兵制度を強行し、学生たちまで戦場の弾丸にあたりに狩り出した。最後には1944年には朝鮮からまで徴兵制を実施して日帝が降伏するときまで20万あまりの青年たちが徴集された。
日帝はさらに国家総動員法に従って戦時に必要な労働力を強制的に徴発した。このように徴発された人々は炭鉱と金属鉱山、土木と建築現場、軍需工場のような場所へ奴隷のように酷使されたり命を奪われたりした。彼らの賃金は日本人労働者の半分の水準以上にはならず、その上控除されるものが多く、実際に受け取る金額はいくらでもなかった。
このような人力収奪は主に農村の農民たちを対象として行なわれた。これによって農村労働人力は少なくなって1939年以降農業生産力は急速に落ちていった。
もう一歩すすんで学ぼう
日帝末期に強制労働遅配賃金を求めて60年
(本文略)
日本軍”慰安婦”、女性まで戦争の手段として
日帝が侵略戦争を遂行しながら、行なった最も反人間的な犯罪行為は女性たちを戦場に強制的に動員したことだ。はじめは任意で朝鮮の女性たちを動員していた日帝は戦争の末期になると”女子挺身勤労令”を作って、これを法制化した(1944年)。挺身隊という名前で動員された女性たちのなかで一部は日本と朝鮮の軍需工場に送られて強制労働をさせられ、さらに他の女性たちは戦場に送られて日本軍の”慰安婦”として利用された。日帝はすでに1930年代に初めての大陸侵略と同時に軍慰安所を模範的に運用していたが戦争末期にはこれをもっと組織化して朝鮮の女性たちを集団的に徴発したのであった。
日帝末期に侵略戦争に強制的に動員された朝鮮の女性たちの数は数十万名に推算されるのみであって正確な人数は把握されていない。彼女らの中で多くの人が戦争中に日本軍の”慰安婦”として犠牲になった。戦争が終わった後で帰国した人もいたし、個人的な事情で帰国できなくて外国に残留した人もいた。帰国した人たちは大部分が戦争中に負った精神的・肉体的被害を長い間告白できないまま、不幸な人生を送ってきた。しかし日本はいまだにこれに対する国家的責任を明確にしておらず国際的な解決策は依然として未完のまま遺されている。
(写真) 戦場に強制的に連れてこられた日本軍”慰安婦”たち。おばあさんになった写真の中の一人の女性は2000年に開かれた”日本軍性奴隷戦犯国際法廷”で非人間的な慰安所の生活を証言した。
歴史の現場
日本大使館の前で700回水曜集会、生存している日本軍”慰安婦”のおばあさんたちの涙
(本文略)
(写真)700回を迎える日本大使館の前の水曜集会
文人たちの親日活動
(本文略)
親日芸術活動
(本文略)
親日隷属資本主義
(本文略)
(写真)親日企業が送った献金で作った飛行機
暗い時代の変質者、親日の道
親日警察活動
(本文略)
教育界の人々の親日活動
(本文略)
12月 20th, 2009
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第5章 近代文物の受容と近代文化の形成
この章では ・開港以後、近代文物の受容によって国民の生活の様子が大きく変化したことを説明できる
・近代的教育制度が実施されたなかで民族教育運動が活発に展開されたことを理解する
開港以後、西洋の科学技術に対する関心が高まり、各種の近代文物が入ってきた。西洋医術が入ってきて
西洋式建物が作られた。
新聞と雑誌が発刊されて、近代的な学校も設立された。言論と近代的学校は民衆を啓蒙して民族意識を育てたり、新しい人材を育てる役割を果たした。さらに、国学に関心を寄せて近代民族主義歴史学の土台が準備され、民族文化を守ろうという努力が続いた。
文学と芸術でも新しい動きが起こった。新文学が登場し西洋の音楽と美術が紹介された。しかし、西洋文化の導入は伝統文化を破壊し、民衆の自主意識を弱める役割も果たした。
儒教と佛教は自己革新を通じて新しい発展方向を模索した。東学教団は成長して天道教になって、大倧教
は創設され、抗日運動を後押しした。キリスト教が入ってきて天主教とともに発展した。
主要年表
1883 漢城旬報創刊
1885 カンヘウォン設立
1886 梨花学堂設立
1887 景福宮に電灯設置
1896 独立新聞創刊
1899 電車運行
主題1.近代文物の受容
西洋科学技術の受容の動き
朝鮮後期に使者として清国に行って帰ってきた朝鮮の官吏たちは西欧の科学技術を紹介した。これに刺激を受けた実学者を始めとした一部の学者たちはその優秀性を認めて積極的に受け入れることを主張した。興宣大院君も西洋の武器製造術に関心を持って武器開発に力を注いだ。
開港以後、政府は養蚕、紡織、製紙、鉱山などに関する機械を導入し、外国の技術者たちを招聘するなど西洋の技術を学ぼうと努力した。しかし、政府のこのような政策は性理学を守ろうとする保守派の反発を招来した。一般民衆の、西洋科学技術に対する理解不足から多くの困難がともなった。
甲午改革以後には科学技術と制度の導入にも関心を傾けた。これに従って海外に留学生を送って、国内に京城医学校、鉄道学校、光武学校など各種の技術学校を設立した。しかし西欧の科学技術の導入は帝国主義列強の侵略の道具として利用されることになってしまった。実際、我々が受け入れることができたものは体系的な科学技術ではなくて断片的であったり、単純な一部の技術に過ぎなかった。これによって、日帝の植民地になった次にはさらに技術の部分では遅れをとることになった。
もう一歩すすんで学ぼう
西欧農学の導入と農業書の編纂
(本文略)
近代文物の導入、生活は便利になったが・・・・・・
開港以後、西洋の科学技術に対する関心が高まり、各分野に近代施設が導入された。まず、政府は博物局、機器窓、転換局など近代産業施設を整えて、新聞を発行して、武器を製造しながら、貨幣を鋳造した。
1885年ソウルとインチョンの間に電線が架設され、漢城電報総局が門を開いて電線業務が始められた。
その後に、我々の手で電線を架設することで中国、日本と連結する国際通信網まで整えた。電話は始めは
宮城の中に架設されて、続いてソウルしないの民間まで拡大した。
近代産業の根幹と言える鉄道と電気にも多くの関心が寄せられた。鉄道は1899年に京仁線が開通して以後京釜線(1905年)、京義線(1906年)が次々と開通した。王室はアメリカ人と合資して漢城電気会社を作って、発電所を建設した。西大門から清涼里の間に初めて電車の運行が始められ、ソウル市内の一部に電灯が架設された。あわせてソウルの道路と河川を整備した。
しかし西洋文物の導入は技術と管理を外国人に依存していたために経営上から多くの負担を負った。さらに帝国主義列強がこの過程で影響力を行使しながら利権を掠め取って大韓帝国の主権を制約することもあった。
(絵) 景福宮に入ってきた電灯(想像図) 1887年ごろ。(本文略)
歴史の現場で
新しい運送手段、電車の登場
(写真) (本文略)
西洋近代文物の受容、表と裏
開港以後、各分野に導入された近代文物施設は民衆の生活に変化をもたらした。このような変化が実際民衆のためのものだったのか考えてみよう。
(資料1) ソウル、見違えるように変化した。
(本文略)
(写真)1890年頃の南大門と1904年頃の南大門
(写真)道路と下水道整備(1903年)
西洋医療技術こ施設の導入
西洋医療技術がわが国に初めて知られるようになったのは17世紀中ごろのことだった。清へ使者として行った官吏たちが西洋医学書を国内に紹介して一部の実学者たちが関心を持ち始めた。
開港以後、政府は近代文物を受容しながら宣教師たちを積極的に支援して西洋の医療施設を整えて、運営するようにさせた。1885年最初の西洋式病院であるカンフェウォン(後にチェジュンウォン)が王立で設立され、1904年にはソブランス病院が門を開いた。宣教師たちは宣教を目的として医療事業に積極的に参与した。
政府は医学校を建てて近代医療人を養成する反面、衛生局を新設して医療・衛生事業を実施して国民の保健向上に努力した。西洋医学書を翻訳して紹介したり、西洋医療技術を学ぶために留学に行く場合もでてきた。西洋医術を学んだ医療人たちは医師団体を結成して医学の発展に寄与した。
統監府設置以後、日帝は漢方医療を公式の制度から徹底的に排除した。これにより、伝統医学は急激に萎縮の一途をたどることになった反面、西洋医学がその位置を埋めることになった。
人物の横顔
西洋式種痘法を初めて導入したチソクヨン
(本文略)
主題2.言論機関の発達
新聞の時代が始まった。
開港以後、朝鮮政府は国民を啓蒙するために博文局を設立し、「漢城旬報」を発刊した(1883年)。「漢城旬報」は国内のニュースとともに外国の事件を翻訳して紹介し、世界各国の政治、法律、財政、科学、技術、物価などをすべて掲載し、読者たちに知らせることによって政府の開化政策に対する世論の支持を広げようとした。
甲申政変が失敗に終わったあと、開化派が発刊した「漢城旬報」は廃刊された。しかしその後、続いてまた「漢城週報」が刊行された(1886年)。これは朝鮮政府が依然として近代的改革を推進する必要性を感じていたためだ。
俄館播遷以後には民間の新聞も発行された。ソジェピルなどは政府の資金支援を受けて「独立新聞」を発刊した。「独立新聞」は創刊当時に日本の干渉と妨害があったが、政府の改革政策を広く広める一方、世論をまとめて政府の政策に反映させようと務めた。そしてほんとうにハングルだけを使用して西洋の文物と制度を大衆に紹介した。大衆を啓蒙して近代化を実行するという目標だった。
独立協会が解散させられ、「独立新聞」はしだいに衰退の一途をたどった。その後、宣教師のアペンチェロとエンボリが交互に独立新聞社を引き受けて経営したりしたが、経営にいきづまり廃刊となった(1899年)。
もう一歩すすんで学ぼう
最初の筆禍事件の内幕
(本文略)
(写真) 漢城旬報
大韓帝国の時期の新聞
「皇城新聞」は「独立新聞」とは違って、ナムグンオク、ナスヨンなどが合資会社を作って創刊したハングルと漢字の混用の新聞として主に儒学者層を対象としていた。主な執筆者はユグン、パグンシク、チャンジヨンなどが活躍した。国権喪失の危機に直面して「皇城新聞」は光武政権が標榜した「旧本新参」の原則に従って穏健でありながら斬新な改革を実施した。民権の伸長を企図して官民の団結を強調しながら帝国主義の侵略を批判したが、西洋文物を受け入れることを主張した。
11月 25th, 2009
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4章 開港以後の経済と社会
この章では
・ 開港以後、展開された日本と清の経済侵略の状況に対して把握する
・ 日帝の貨幣整理事業、金融支配などに現われた経済侵略の性格を認識する
・ 列強の経済侵略を阻止するための経済的救国運動を把握する
・ 開港以後社会構造と意識、生活のようすの変化を理解する
開港以後、日本の経済侵略が本格的になった。日本の商人たちは西洋の工業製品を持ってきて、米とか牛革、金などを日本に持っていった。壬午軍乱以後には清の商人の国内進出も加速され、日本の商人と熾烈な戦いをした。これによって朝鮮では手工業が崩壊し農民が没落するなど経済が根こそぎ混乱した。西欧の列強のこのような侵略もさらにひどくなった。清・日 戦争と露・日 戦争で勝利した日本は朝鮮の経済権を掌握して、土地の略奪、税制と金融制度の改編など朝鮮経済を植民地経済体制に転換していった。
わが民族は防穀令の施行、商権守護運動、国際補償運動などを通じて経済的侵略に抵抗した。そして商会社と銀行および工場などを設立して民族資本を育てようとした。
反面、政府が近代改革を推進して成長するのにしたがい、身分制度が法的に廃止されて社会意識が変化した。さらに東学思想が広まって啓蒙運動が展開され、平等思想が拡散され近代意識が成長した。そして西洋の文物が入ってきて衣食住もしだいに変わっていった。
主要年表
1882 朝・清 常民水陸貿易章程締結
1883 朝・日 通商章程締結
1899 京仁線開通
1905 貨幣整理
1907 国際補償運動
主題1.列強の経済侵略
はじめに: ”西洋の綿花がでてきてからワタの農業が衰退して 、ブリキがでてきてから鉄鉱も非常におちぶれてきた。”(ファヒョン、メッチョンヤロク)
開港にともなって入ってきた西洋の産品はどんな影響を与えたのか?
日本商人の進出
朝鮮は開港以前から清、日本と貿易をしていた。このときも西洋の商品が密輸入を通じて入ってきていたがその影響はそれほど大きくなかった。江華島条約とその条規付則にしたがって釜山につづいて元山、仁川に次々と開港し、状況は大きく変わっていった。日本の商人たちは開港された港に押し寄せ西洋の商品を大量に移入した。日本の商人たちは主に英国から輸入した西洋の綿織物を運び入れて売り、米とか大豆、牛皮、金などを買い入れて日本に送った。
穀物が日本に輸出されると、国内の穀物価格が上昇し、民衆たちは物価高と食糧不足に苦しんだ。押し寄せる西洋の綿織物はまだ手工業体制から抜け出していなかった国内綿織物産業に大きな打撃を与えた。さらに日本の商人は領事裁判権と日本貨幣の使用権、無関税、および日本政府の政策支援に力を注ぎ、略奪的な貿易活動を仕事とした。
しかし日本の商人たちは始めは居留地の中だけで貿易をすることができた。このため、彼らは客主、旅閣、ポブサンなど朝鮮国内の仲買商人を通じて内陸市場に商品を売買していた。国内の一部仲買商人は外国貿易に力を入れて富を築いた。しかし日本商人の商権拡大に従い、大多数の国内の商人たちは商権が次第に脅かされていった。
(写真) 仁川の外国人居留地。写真の上のほうは日本、清、西洋人が住んでいた地域で、下のほうの朝鮮人の藁屋とは対照的である。
清の商人と日本の商人の商権略奪戦争
開港以後日本の商人に追い出された清の商人たちは壬午軍乱以後次々と劣勢を挽回した。特に朝・清常民
貿易章程が締結されると(1882年)、朝鮮の市場をめぐって日本の商人と熾烈な競争となった。その結果、清・日戦争直前の1893年には清と日本から輸入する総額がほぼ等しくなった。
朝・清常民水陸貿易章程で、清の商人たちは開港された港の他、内陸でも貿易をできるようになり、最恵国規定にしたがって他の国の商人たちも内陸に進出することができるようになった。もう日本の商人と清の商人はソウルまで直接入ってきて莫大な利益を上げ始めた。一方、居留地貿易で輸出入商品を仲買してお金を稼いでいた国内の商人たちは大きな打撃を受けざるをえなかった。
反面、貿易の規模が大きくなると朝鮮の貿易収支は次第に悪化した。1893年の場合、輸入額が輸出額の2倍以上になった。このため、国内産業はごく一部を除外して没落一途をたどってしまった。反面、日本は朝鮮に輸出する商品のうち自国産製品の割合を高めていくなかで、値段の安い朝鮮の米と原料を輸入することで産業革命の基盤を固めることができた。しかし、清は外国産製品を輸入して朝鮮に輸出することで自国の経済に及ぼす波及効果が小さかった。
もう一歩すすんで学ぼう
玉のような西洋の木綿、玉様木
(本文略)
経済侵略をねらう清と日本(活動1)
開港以後、朝鮮貿易の主要な相手国であった日本と清は主導権を掌握しようと熾烈に争った。特に、日本の商人たちの商権略奪と不法行為はとどまるところをしらなかった。
(資料1) 朝・日通商章程
(資料2) 朝・清常民水陸貿易章程
(資料3) 清と日本からの輸入額比率の比較
(資料4) 対日輸出の品目とその構成比
帝国主義列強の経済的侵略
清・日戦争が終結後、帝国主義列強諸国が鉱山、山林、鉄道など主要利権の侵略に本格的に手を伸ばしてきた。 特に俄館播遷の頃から最恵国条項を唱えて各自利権を奪い取っていった。ここでは日本を始めとして、ロシア、アメリカ、フランス、英国などが関与した。
露・日戦争以後に日本は鉄道用地と軍用地確保を名目にして大韓帝国政府が持っていた国有地と田地を奪い取った。軍用地に必要な地域をほとんど制限無く占領し、軍の駐屯地の近くの土地を大量に略奪することもあった。さらに、京釜線を始めとするさまざまな鉄道を敷設して、民間人が所有していた農地を鉄道用地に編入させて農民たちを強制的に鉄道賦役に動員した。
日本の民間人たちもたくらみをめぐらしたり半強制的に肥沃な土地を買い入れて、全州、群山、羅州、チェリョン、金海一帯に大規模な農場を占有した。日帝は東洋拓殖株式会社などを作ってこれを支えた。東洋拓殖株式会社は略奪した土地を管理する一方、日本人の朝鮮移住を助けた。
1910年ごろ日本の民間人と東洋拓殖株式会社が朝鮮で所有した土地は約860平方キロメートル、ソウルのヨイドの面積(8.4平方キロメートル)の100倍に達した。大韓帝国を完全に併合した1910年以後にはその数字が幾何級数的に大きくなった。
歴史の現場で
文明と略奪の二つの顔、鉄道
(本文略)
(写真)日本軍が鉄道工事を妨害したとの理由で朝鮮人たちを処刑している様子
日本の財政掌握と金融支配
日帝は1904年露・日戦争の勃発とともに大韓帝国を植民地に変えるのに必要な基礎作業を推進した。そのなかでなによりも力を注いだのが大韓帝国の財政と金融部門を完全に掌握することだった。
まず日本人の財政顧問官を立てて財政整理作業に着手した。国庫を自分たちの都合のいいように利用しながら、徴税機構を改編して王室の財政を解体した。さらに、従来の各種租税をもっと引き上げて徴収し新しい税源を捜して租税収入を大きくした。
これと同時に日帝は日本の第一銀行券を本位貨幣とみなして新しい補助貨幣を発行して大韓帝国の貨幣発行権を奪った。そして従来国内の商人たちが主に通用させていた白銅貨は新貨幣と交換するとき価値を切り下げ交換してあげた。これで日帝は植民支配に必要な資金を現地で調達することができる反面、国内の貨幣流通体系は混乱に陥り商人たちは多くの損失をこうむった。
開港期朝鮮ではどんな貨幣が流通していたのか?(もう一歩すすんで学ぼう)
(本文略)
主題2. 経済的救国運動
はじめに: ”市場に外国の商人が入って来れないようにせよ。最近、開港した港の他でも外国の商人たちが入ってきてソウルの商人と田舎の商人みんなが苦しんでいてほとんど死にそうなくらいになってしまった。新しい法を作って外国人が市場で売買することを禁じて国を興す計画を立てよ。”(活貧団、大韓国民論説13条)
このような外国の商人たちの商権略奪に国内の商人たちはどのように対処したか?
各界各層の経済自主権守護運動
外国勢力の経済侵略に直面して社会の各界各層では多様な抵抗運動を行なった。その代表的な例としてソウルの商人たちの商権守護運動、荒地開墾権反対運動、国際報償運動などをあげることができる。
穀物が日本などに輸出されて価格が高くなり民衆の恨みが強くなると地方の役人たちはこれを収拾するために防穀令を出した。特に1889年咸鏡道と1890年黄海道の防穀令はその規模が大きかった。しかし日本は防穀令を出す1ヶ月前にあらかじめ通告しなければならないという朝・日通商章程の規定を拡大解釈して日本の同意がないことを口実にして圧力をかけた。これに政府は地域間の円滑な穀物の移動と日本の圧力を考慮して防穀物令を撤回した。
開港の初期、居留地貿易に従事していた外国商人たちは、朝・清常民水陸貿易章程が締結された後には内陸まで入ってきて国内の商人たちの商権を侵略した。これに抵抗してソウルの商人たちはストライキを起こして外国商店のソウル退去を要求した。さらに皇国中央総商会を組織して外国商人たちの不法な内陸商業活動を処断することを要求した。
(写真)清・日の商権。清の商人たちは南大門とスピョッキョ一帯を中心として、日本の商人たちは忠武路一帯を中心として朝鮮の商権を掌握した。写真は忠武路一帯の様子。
(地図)清・日本の経済的侵略と防穀令の宣布
日帝が露・日戦争勃発直後日本人の移住を助けるために広大な荒地の開墾権を要求すると激しい反発が起こった。一部の人々は農鉱会社を設立して荒地をわが国の国民の手で開墾することを推進した。特に、開墾権反対運動に積極的に参加したのは上訴に屈することなく、保国安民を目指す保安会を組織した(1904年)。
保安会は日帝の強圧を顧みずに毎日街頭集会を開き、民族あげての反対運動を展開した。こうして最後には
日帝は荒地の開墾権要求を撤回した。
さらに、外国資本の侵略が非常に激しくなった鉱山採掘地、鉄道敷設地、開港場などの場所では労働者たちの抗争が起こった。彼らは低賃金と民族的差別待遇に同名罷業を起こすこともあった。
活動2.列強諸国の経済侵略阻止運動
列強諸国の侵略に直面して皇国中央総商会と独立協会などは多様な対応を行なった。次の課題を解決してみなさい。
(資料1) 皇国中央総商会の外国人内陸商行為反対
(本文略)
(資料2) ロシアの領土要求に反対する独立協会
(本文略)
(資料3) アメリカと鉄道敷設を支持する独立協会
(本文略)
民族資本を育てよう
開港以前、朝鮮の社会には一部産業資本が形成されていた。これら産業資本は開港以後怒涛のように押し寄せてくる外国資本の前に大部分が没落の路をたどった。しかし、一部の商人とか官僚を中心として民族資本を育てようとする努力も生まれてきた。
都会の商人たちは露店禁止令が廃止され、外国商人たちの経済侵略が激しくなってくると既存の特権商業活動を放棄して近代的商人に変身した。彼らは皇国中央総商会を組織した(1898年)。商権守護運動を行なったり近代的生産工場に投資することもした。
宿屋や官僚たちも各種会社を設立したが、その中で商会社が代表的だった。彼らは1890年代初期にはチャンシン商会、テピョン商会などを設立して産業活動に従事した。これら商会社は甲午改革以後には特定の商品を受け持って取り扱ったり特定の機関へ専門的に納品する会社に発展した。
一方、京仁線、京釜線など主要鉄道敷設権が外国人に渡ってしまうと民間人たちが鉄道を敷設しようとした。パッキジョンは1898年に釜山〜ハダンポ間の敷設権を農商工部大臣から認可を受けた。1899年政府は京義線鉄道敷設権をパッキジョンが創立した大韓鉄道会社に許可を与えたが、資金不足ですべての努力が水泡に帰してしまった。
開港以後、金融業にも新しい変化が現われた。日本の金融機関と商人の侵略に対応して新しい銀行が作られた。光武改革に前後して朝鮮人官僚たちが中心になって朝鮮銀行を設立した。民間でも資本を合資して漢城銀行、天日銀行などが作られた。
しかしこれら土着会社の大部分は資金不足、技術ならびに運用方法の未熟に苦しめられた。そのうえ、日本の政治的妨害と外国商人たちの商権侵略によって経営が不振に陥り、まもなく存続できなくなって倒産したり日本人たちの手に渡ったりした。
(解説) 開港以後の鉄道建設の動き
(本文略)
(写真) 漢城銀行(1900年代)。
(本文略)
人物の横顔
行商人から近代的起業家に成長したパクスンジク
(本文略)
国際補償運動、我々の力で国の栄光を取り戻そう
日帝は統監府を設置して植民地施設を整えるために必要な資金を大韓帝国政府に整えるように日本から
持ってくるようにした。その金額は1907年まで大韓帝国の1年間の予算に匹敵する1300万ウォンにのぼった。商工業者ならびに知識人たちはこの借款によって国権がさらに蹂躙され隷属と侵略がひどくなることを憂慮した。そこでかれらは大邱を始めとして日本から借りてきた借款を返済する国際補償運動を起こした。国際補償期成会を中心にして各層啓蒙団体と”大韓毎日新報”、”皇城新聞”、”帝国新聞”、”万歳報”などの言論
機関が募金運動に参加した。国際補償運動に呼応して男はタバコをやめて節約したお金で募金に参加し、婦女子たちはかんざしと指輪まで出した。国際補償運動は日本にまで知れ渡り、800余名の朝鮮人留学生たちも参加した。
このようにして2月にこの運動が始まって以来5月まで約24万ウォンを集めた。その後も運動の熱気は持続し、数十万ウォンから数百万ウォンと推定される金額が集まった。
しかし日帝は国際補償運動を反日運動とみなして、売国団体の日進会を利用して妨害し、その指導者であるヤンギタクを拘束するなど弾圧を加えた。これにより国際補償運動は萎縮してしまった。さらにこの運動では一般民たちが主に呼応するだけで、上層階級の人々、名門家、富豪などの参加がほとんど無くその熱気が長くは継続できなかった。
(写真) 国際補償運動の記事。1907年4月12日”京郷新聞”に掲載された”国際補償論”に関連した論説。
もう一歩すすんで学ぼう
国際補償運動趣意書
(本文略)
主題3.社会構造と意識の変化
消える身分制、平等な社会へ
朝鮮後期に入ると、身分制は大きく揺らいできて政府もしだいに廃止する方向で政策を推進した。農民層の成長と両班人口の増加などでもうこれ以上身分制を維持するのかできなくなったからだ。
すでに1801年公奴婢が解放され、開港以後には身分制廃止の速度が速くなった。1882年、庶子、中人をはじめとするすべての階層の官職進出が許可された。これは庶子とか中人自身が持っている学識とか経済力にふさわしい社会的地位を獲得するために努力した結果ともいえる。甲申政変のときは門閥の廃止と人民平等権が宣言され1886年には奴婢世襲制が撤廃された。
農民たちも身分制をなくして新しい社会を作ろうとした。東学農民運動は身分制を廃止するのに決定的な役割を果たした。その結果甲午改革と乙未改革を経て、門閥と両班、平民の等級がなくなりいっさいの賤民身分と公私奴婢が法律的に撤廃された。さらに科挙制を廃止して新しい人事制度をつくり、庶子とか平民が官職に進出できる道を以前より簡単にした。そのほかに早婚や寡婦の再婚禁止、連座法のような封建的悪習がはいしされた。
rosia
11月 5th, 2009
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第3章 救国民族運動の展開
この章では
・東学農民運動の展開過程とその性格を把握する
・独立教会活動と万民共同会結成の歴史的意義を認識する
・大韓帝国政府が推進した光武改革の意義と限界を知る
・義兵運動と愛国啓蒙運動が救国民族運動の一環として展開されたことを理解する
開港以後、社会改革が満足に推進されなかったうちに、農民に対する収奪はかえってひどくなった。これに
対して、1894年農民たちは反封建と反侵略を旗印として掲げて全羅道をはじめとして、忠清道、黄海道、慶尚道、江原道などの地方で蜂起した。
乙未事変と断髪令に反発して起こった義兵運動と俄館播遷え開化派政権が崩壊して大韓帝国が成立した。大韓帝国は量田・地契事業を始めて商工業を育成するなど近代的改革を推進した。反面、世論と政府の支援に助けられて作られた独立協会は大衆の啓蒙に力を注ぎ、近代化運動を展開した。しかし独立協会は一部の人々が万民共同会を組織して、政府の政策を批判し、政治勢力に成長すると、政府は万民共同会とともに独立協会を解散した。
日本が露日戦争で勝利すると大韓帝国政府の改革は中断されて、日本の植民地化作業が本格化した。これに儒学者たちと農民たちが義兵を起こして日本の侵略に抵抗した。いろいろな啓蒙団体が国権回復のひとつの方法として啓蒙運動を広げた。
年表
1882 朝・清 庶民水陸貿易章程締結
1883 朝・日 通章程締結
1899 京義線開通
1905 貨幣整理
1907 国際補償運動
主題1.東学農民運動の展開
はじめに: 庭の花よ、その日が来れば鶏が鳴くとき、白い木綿のひもを頭にまいて、東進河の入り口に集まり、チャプチャプいう波の音に、耳を傾けよ(アンドヒョン、ソウルへ行くチョンボンジュン)
東学農民運動を通して農民たちが作り上げようとした世界はどのようなものだったのか?
1894年以前の農民たちの動向
1880年代にはいると政府の税制改革の努力が成果を示せなくなって政治の乱れがふたたびひどくなってきた。これとともに開港以後外国の商品がはいって国内の手工業が萎縮し、米が日本に流出するようになり、米の価格が上昇し、食糧が不足するようになった。貧農はもちろんのこと、零細手工業者と小商人など庶民たちの生活は日増しにきびしくなった。反面、地主と大商人などは米の輸出を通じて富を蓄積し所有地を増大させた。
農民をはじめとして庶民たちは政府の税金収奪、地主層の地代収奪および外国勢力の経済侵略に直面して全国各地で蜂起をした。蜂起の主導者層も富農から小農、貧農層へと移っていき、一部は反乱を起こすと火の様になり地主と役所を攻撃することもした。都市の下層階級の人々も官吏の収奪と外国勢力の経済侵略に直面してソウルの警察を襲撃したり、外国勢力と結託した商人たちを攻撃した。民衆の体制批判意識がしだいに高まっていったのだ。
しかし大部分の活動は郡県単位で小規模に起こり一回性のものとして終わってしまった。これらの組織が郡県単位を越えた全国規模の組織として発展できなかったためだ。
もう一歩すすんで学ぼう
農民蜂起が新しい様相で展開する
(本文略)
(グラフ)1894年以前の農民蜂起の発生件数
教条、身元運動を超えて、反外国勢力運動へ
慶州地方に没落両班出身のチェジェゥが1860年に東学を創始した。東学とは西学、すなわち洋学に反対するといってつけた名称で、輔国安民(国を助けて民衆を平安にすること)と除暴救民(暴力を排除して民衆を救うこと)に目的を置いた。これに社会変革を希求する知識人と一般農民たちがあわさり東学組織に参加した。
東学勢力が大きくなると政府は”社会を攪乱して民衆をだますものだ(惑世、誣民)”と考えてチェジェウを処刑した。政府の弾圧のため一時勢いが弱くなった東学は2代目の教祖チェシヒョンを中心にして教団を再整備して布教に力をいれ教団の勢力をさらに強化していった。教団の勢力が強くなると、東学の教徒たちは1892年と1893年にコンジュ、サムネ、ソウル、ポウンなどの地で教祖チェジェウの無念さを解いて東学教徒に対する弾圧を中止するようデモを行なった。
布教の自由を得るために努力したチェシヒョン、ソンビョンヒなどの教団指導者とそのほか、チョンボンジュン、ソジャンオク、などの農民指導者たちは現実の社会改革に意義を置いた。彼らは別に全羅道のクムクで1万余名の農民たちを集めて集会を開いた後、ソウルに入っていこうとした。ポウンで集まった東学教徒と農民たちもクムク集会に影響を受け東学指導部に”斥倭洋倡義”、”輔国安民”を要求して全国的な蜂起をもくろんだ。
この計画は政府の弾圧と東学指導部の反対によって中断された。しかしチョンボンジュンなどはさらに別の機会をうかがった。とうとう彼らはコブ郡守チョビョンガプの暴政を契機として沙鉢通文(檄文)を掲げて蜂起を起こした。
もう一歩すすんで学ぼう
倭洋をぶち壊そうという意志を示したポウン集会(1893.3)
(本文略)
コブ農民蜂起と第1次農民蜂起
全羅道はわが国の穀倉地帯として物産が豊富であったほど、農民たちはいつも過酷な収奪の対象になっていた。コブは全羅道のなかでも最上の穀倉地帯であった。 コブの郡守チョビョンカプの暴政がひどくなると、チョンボンジュンを先頭にした数百名の農民たちはコブ役場へ向かった(1894.1)。彼らは役場を占領して収奪の先頭にたっていた役人を処罰した。これからどうしたらいいのか具体的に準備できなかった農民たちは新任の郡守パクウォンミョンが穏健な融和策を示すと自然と解散した。
ところが臨時の官職としてやってきたイヨンテが騒動の関連者を反逆罪の罪をかぶせて残酷に弾圧すると状況は一変した。これにたいしてチョンボンジュンらは武装を始め農民軍を再組織してソンファジュン、キムケナムとともに蜂起を起こした。これが第1次農民蜂起である(1894.3)。
農民軍は3月下旬白山に集まり四大綱領と農民蜂起を知らせる檄文を発表した。つづいて白山を離れてテインを経由して全州城占領を目標として4月初めクムク・ウォンピョンに陣を張った。ここでは東学教徒よりは主に一般の農民たちが参加した。彼らは腐敗堕落した貪欲な官吏の追放、税金収奪の是正などを主張した。特に、この地域の農民たちに対する収奪によって怨嗟の声が高まっていた均田社をなくすよう強く要求した。
農民軍はコブ・ファントヒョンで地方官庁の軍隊を打ち破ったのち(ファントヒョン戦闘)、まっすぐ全州に進撃せずに、中央から派遣された政府軍を誘い込もうとして南方にすすんだ。ジョンウプを経てフントク、コチャン、ムジャン、ヨンガン、ハムピョン等を占領した農民軍は4月下旬、ジャンソン・ファンニョンチョンの戦闘で政府軍を大きく撃破した。この勢いに乗って農民軍は全州城に入城した。
(地図)第1次農民蜂起(1894.3〜5月)
(図) 農民軍4大綱領
全州和約と執綱所活動
政府は全州城の陥落に驚いて清に援軍を要請した。これに対し清軍は5月5日、アサンマンに軍隊を上陸させた。清軍の進入を見守っていた日本も天津条約を口実にしてインチョンに軍隊を送り、韓半島の情勢は新しい局面を迎えた。政府が思いもよらずに日本軍が入ってくると、清・日両国の撤兵を要求する反面、農民軍と妥協を模索した。政府軍と力に余る戦闘を行なっていた農民軍も政府軍と戦ううちに不利になってきた情勢を取り戻すために政府軍に休戦を提起した。
とうとう5月8日に政府と農民軍の間で全州和約が結ばれた。政府は農民軍の身辺保障を約束する反面、農民たちが要求したさまざまな改革案の中で一部を受け入れた。ここでは身分制を廃止して税金制度を改革するという内容が含まれていた。
全州和約以後、各地に散らばった農民軍は各郡に執綱所を設置した。執綱所は一種の農民自治組織で農民の意思を集めてこれを実行しながら治安を担当することもした。農民軍は地方の郡守などと手をとって各種の制度を改革し、収奪の先頭に立っていた地主と富豪を処罰した。さらに身分的秩序を解体しながら既存の社会秩序を保存し近代社会として変わっていこうとする動きを見せた。
歴史の現場で
ジャンソン・ファンニョンチョン戦闘で”大豆”が威力を発揮した
(本文略)
農民軍は執綱所でどんな仕事をしたのか?
執綱所は地域の実情に合わせて民政機関、さらには治安機構の機能をおこないながら改革にとりくんだ。
農民軍の悪政改革案を通じて当時の社会の様子と執綱所活動を推論してみよう。
資料1.農民軍と12か条の悪政改革案
資料2.先のとがった冠をかぶった者を見ると悪口を言う農民軍
(本文略)
第2次農民蜂起、公州へ、公州へ
政府は農民軍と和解した後、このことを打ち出して清と日本に軍隊の撤兵を要求した。しかしこの機会に清軍を追い出して朝鮮で地位を固めることを決心した日本は兵力を動員して景福宮を占領し、続いて清・日 戦争を起こし、朝鮮政界を掌握した。これに危機意識を感じた農民たちは9月サムネで第2次蜂起を起こした。
チョンボンジュンはサムネ集会を主導し、全羅道の農民軍を集め、これに忠清道と慶尚道地域に基盤を置く教団指導部と連合した。
日本を追い出して勝利するためにソウルに押し寄せてきた農民軍は公州ウグムチで日本軍と官軍の連合軍と対し、熾烈な攻防を行なったが、武力の劣勢のため結局敗北してしまった。同じ時期にナモンにとどまっていたキムケナム部隊もピョルドに北上しチョンジュ城を攻撃したが敗北してしまった。
東学農民運動は日本と開化派政権の武力鎮圧により失敗に終わった。これは農民が主導者になって近代改革を推進しようという試みが挫折したことを意味する。しかし東学農民運動の熱情は消えることなく以後の農民の社会改革運動に大きな影響を与えた。さらにすすんで義兵戦争の推進力となって反侵略反日闘争の歴史的基盤となった。
(地図) 第2次農民蜂起(1894.9〜1895.1)
(写真) 逮捕されていくチョンボンジュン
歴史の車輪
全州トクジン公園ー100年ぶりに会う3人の人
(本文略)
主題2.大韓帝国と独立協会運動
はじめに: ”数多くのものすごい人々が独立の趣旨を知ることができるようにしようとすれば協会を作って先頭に立って「独立だ!独立だ!」と叫び毎日独立という文字を数え切れないほど宣伝して広く啓蒙しなければならない”(大朝鮮独立協会の会報創刊号)
はたして独立を啓蒙する最も効果的な方法はなんだったのか?
独立協会と万民共同会
俄館播遷を契機としてロシアと日本の間に勢力の均衡が出来上がると、政府は近代文物を使って国を富強にしようとしたが、大衆の啓蒙にも関心を寄せた。まず西洋文物に明るいソジェピルを中枢院顧問として任命した。ソジェピルを初めとする開化派知識人もこの機会を利用して独立協会を組織した(1896年)。
独立協会には開化派知識人とともに政府の官僚たちが多く関与した。一般大衆も基金をだしたり講演会に
積極的に参加した。独立新聞の発刊と独立門の建設などは政府と独立協会、および国民たちがなしとげた代表的な実りだった。
独立協会内部では政局運営をめぐって二つの意見があった。ひとつはソジェピルを初めとする人々で政府の専制君主制案を拒否して君主の権限を制限するというものだった。かれらは1898年2月政府がロシア人アレクセープを顧問として招聘したことを批判し、一部の政府大臣の辞職を勧めた。政府がソジェピルを顧問職を解任するとアメリカに出国するように処置すると、彼らは1898年3月万民共同会を結成して政府のこのような方針を全面的に反論し上訴運動を展開した。あわせて民権の伸長を主張し、高位官吏の人事にも関与しようとした。
もう一歩すすんで学ぼう
高宗、ロシア公使館へ移る
(本文略)
もうひとつはユンチホ、ナムグンオクなどのような人々で政府に協力して国権を守り、民権を伸張することに努力した。1898年10月に彼らは官民共同会を結成し、献議6条を決議し、高宗に上奏した。専制王権を固く固めて改革を推進しながら国権を強化しようとしたのだ。
これに光武政権は官民共同会の主張を受け入れ保守派の大臣たちを交代させ、中枢院の構成と財政計画などを約束した。特に、中枢院議官には政府官僚と独立協会の人々をそれぞれ半分づつ選任した。
このようななかで万民共同会が政治的行動に積極的になると政府は1898年12月皇国協会を動員して万民共同会をい攻撃した。在野の儒学者たちも万民共同会と独立協会を激しく批判すると結局独立協会は解散した。
活動2.国の富強と大衆の啓蒙を目標として組織された独立協会
独立協会は自主的国権、自由民権、自強改革を唱えながら国権の強化のために努力した。独立協会の活動が収めた成果を知ってみよう。
資料1.独立協会の主要な活動
資料2.官民共同会の献議6条
資料3.独立協会を解散せよ
大韓帝国と光武改革
高宗がロシア公使館から慶運慶宮に還宮すると国家の地位を高めようとする雰囲気が醸成され皇帝の称号を使おうとする上奏が相次いだ。これに対し高宗は国号を大韓帝国、年号を光武と称し、皇帝即位式を挙行し自主国家の様相を整えた(1897年)。
あわせて政府は大韓帝国の憲法とする”大韓国国制”を制定した(1899年)。大韓国国制は皇帝に陸海軍の統帥権、立法権、条約締結権と使臣任命権などすべての権限を集中させた。軍事権の範囲と対象を基準とすることで対内的には軍事権が最高の権力であることを、対外的には大韓帝国の主権が外国の干渉を受けない独立主権であることを内外に宣布したものだ。
大韓帝国は列強勢力がお互い競争しあう情勢を利用していろいろな改革を推進した。これを光武改革という。光武改革は”昔のものを基本として、新しいものを参考にする”という旧本新参の原則の下に部分的に西洋の制度を取り入れ国の発展を達成しようとした。これは外国勢力に依存して改革を主導してきた甲午改革の失敗を鑑として伝統的な制度を基本にして新しい制度を受け入れようという姿勢から始まったものだ。
大韓帝国国制 9条(要約)
(本文略)
大韓帝国は何よりも国家の自主性を裏付ける為に必要な国防力強化と財政改革、商工業の育成に主力を傾けた。まず、皇帝が軍事権を掌握するために元帥府を設置して皇帝を護衛する軍隊を増強した。その間に日本軍に王宮が占領されてきた侮辱を防いで国防力を育てるためであった。
次に政府の税金収入を増やして近代的な土地所有権を確立するために1898年に量地衙門を設置して1899年から1903年まで一部の地域で土地調査作業と地契発給作業を実施した。これで土地を法律の保護下に自由に売買できて、国家財政を改善できる土台が準備された。さらに俄館播遷以後に改編された13道制を安定させるために地方制度を粘り強く整備した。
このほかに商工業奨励策を実施し、繊維、運輸、鉱業、金融、鉄道などの分野で近代的会社が設立された。そして近代産業技術を習得するために外国に留学生を派遣して、産業学校と技術教育機関を設立した。
光武改革は専制君主制の確立を通じて近代主権国家を志向し、短い期間に国防、産業、教育、技術面で大きな成果をもたらした。しかし大韓帝国は依然として列強の影響力から抜け出すことができないでいた。改革を推進した勢力も王室と一部官僚たちにとどまり、改革を要求する国民たちの熱意を積極的に引き出すには力不足だった。
人物の横顔
大韓帝国の王室の財政係、イヨンイク
(本文略)
間島と独島
間島は豆満江と松花江の間にある土地で、清と朝鮮はあいまいな境界を確定するために18世紀のころ白頭山定界碑を建てた(1712年)。19世紀の中ごろ以降、咸鏡道民たちが豆満江を越えてこの地域に住むようになると再び領有権紛争が起こった。ふたつの国は様々な交渉をしたが協議はいつも雲散霧消してしまった。
大韓帝国が樹立されると政府は間島問題の解決に積極的に出て現地に調査団と官吏を派遣し、わが国の住民を保護することに力を注いだ。しかし乙巳条約で大韓帝国の外交権を奪った日帝が満州安奉線鉄道の敷設権を獲得するために清と間島協約を締結し(1909年)、間島を清の領土と認定してしまった。
19世紀の中ごろ、わが国の沿岸には日本の漁民たちが不法侵犯することが多くなった。朝鮮政府はこれに抗議し、1881年には鬱稜島および付属島嶼に対する鎖港政策を中断した。そして1884年には陸地の住民を移住させて官吏を派遣した。しかし、日帝は露・日 戦争のさなか、大韓帝国政府に知らせることなく独島を自分たちの領土に不法にも編入させてしまった。これは国際法上、明白な不法領土奪取行為であると同時に朝鮮領土侵略の序幕であった。
活動3.間島、清へ渡ってしまう
日帝は清と間島協約を結んで、その間にわが国の同胞たちが住んでいた間島を清国に渡してしまった。間島協約はどんな意味を持っているのか考えてみよう。
(資料)間島協約締結(1909.9)
(本文略)
歴史の車輪:
独島はわが国の領土、その歴史的根拠
(本文略)
主題3.抗日義兵戦争の展開
はじめに; ”ああ、全国の同胞たちはどうして滅びゆくこの国を見捨てることができようか?ああ、無念だ。
誰が知っていただろう?外国と通商しようという計略が亡国の原因になるとは・・・。この学者たちは他人の
奴隷になる恥を免れようとするのだった。”(ユインシク、全国のすべての道に叫ぶ)
義兵将たちのこのような訴えに呼応した人々は誰だったか?
義兵運動が始まった
乙未事変で憤激した儒学者たちと民衆は政府が断髪令を発布すると全国のあちこちで義兵を起こした。1896年1月下旬、春川で儒学者のイソウンが義兵を起こしたことを皮切りに、義兵部隊は忠州を始めとする地方の主要都市を攻撃し、親日官吏と日本人たちを処断した。
初期の義兵(乙未義兵)では衛正斥邪思想を持った儒学者たちが先頭に立った。これに反日、反侵略を叫んでいた一般の農民と東学農民軍に参加した勢力が加担した。しかし、儒学者義兵将と異なり、一般の農民たちは反封建を志向していたために大きくて長い葛藤が生まれた。
儒学者たちの義兵将たちは俄館播遷で親日開化派政権が滅亡した後、断髪令が撤回され、高宗が義兵解散を命令するとそれぞれが部隊を解散した。義兵運動に加担した農民軍や行商人、流民、労働者、乞食などは活貧団などの農民武装組織を作って、反侵略、反封建闘争を継続した。彼らは官吏と富豪、日本の商人を攻撃し、奪われた財物の一部を貧民に分けてあげた。
歴史の現場で
(本文略)
再び火がつけられた義兵抗争
乙未義兵が解散した後、しばらくの間静かだった義兵闘争は1905年ウルサ条約に前後して再び盛んになった。1904年7月ソウル教会の軍人たちが反日義兵活動を開始した。このときから起こった義兵運動を後期義兵と呼ぶ。1905年4月に入ってからは活貧団など農民武装勢力が活発に活動した京畿道、江原道、忠清道、と慶尚北道一帯で義兵たちが蜂起した。
さらに、両班の儒学者たちも全国各地で義兵を組織した。ウルサ条約締結前の1905年8月にはウォンジュ、9月にはタニャンで義兵が起こった。ウルサ条約が締結されると1906年3月にはチュンナム・チョンサンで前参判のミンジョンシクが、4月には京北でチョンヨンギが、6月には全北テインでチェイクヒョンが義兵を起こした。そのほか、各地の多くの儒学者たちが義兵運動に参加した。
義兵運動が本格的になる中で平民の義兵将が登場した。平民の義兵将は率いる部隊は東学農民運動と活貧団などの武装闘争の経験を基礎として山岳地帯に根拠地を置いて小規模部隊の形態で日本軍と熾烈な戦闘を戦った。このなかでシンドルソクの部隊は江原道、慶尚北道、忠清道の境界地帯と東海沿岸一帯を縫ってすすみながら遊撃戦に勝って多くの戦果をもたらした。このように後期義兵運動は参加階層の拡大と戦術の変化で反侵略抗争の性格を強く帯びるようになった。
人物の横顔:
太白山の虎と呼ばれた平民の義兵将シントルソク
(本文略)
(写真)シントルソクの墓
全国的に拡大した義兵戦争
反日義兵闘争は1907年8月、軍隊の解散を契機として新しい転機を迎えた。日帝はハーグ特使事件を口実にして高宗を強制的に退位させ、大韓帝国の軍隊までも解散させた。解散の処置を拒否して第1連隊第1大隊長パクスンワンは自ら命を絶った。パクスンワンの自決のニュースが広まるとソウル侍衛隊が蜂起した。つづいてウォンジュ、ホンチョン、チュンジュ、江華島などの地方の親衛隊が同調した。解散させられた多くの軍人たちは義兵に参加した。これによって義兵部隊の戦闘力が強化されて義兵抗争は本格的な戦争の様相を呈し、全国に広がった。
義兵部隊の構成もずっと多様化した。儒学者と農民、解散軍人だけでなく、労働者、小商人、僧侶、華族など様々な階層が義兵に参加した。義兵将も両班のかわりに平民が多数を占めるようになった。その中で、
黄海道、京畿道のキムスミン、ハムギョンドのホンポムド等が平民義兵将として名声をあげた。全羅道のチョンギホン(チョンへサン)、シムステク(シムナミル)などももともとは両班であったが実際には平民と違いはなかった。
民衆の参加と支持で義兵戦争は全国的に拡散する中で両班や儒学者の義兵将たちも1907年12月にイインヨンを総大将とした13道連合義兵を結成した。ヤンジュに集結した連合義兵は日帝と親日派が掌握したソウルを奪還して日帝と談判するために次の年、1月にソウルに進攻したが失敗に終わった。これに儒学者の義兵将たちは義兵隊列から次第に脱落し始めた。しかし平民の義兵将と一部革新的儒学者たちは地域の人々の助けを借りて小規模部隊で遊撃戦活動を継続した。
(写真)強化親衛隊(1905年)
(文章略)
もう一歩すすんで学ぼう
13道連合義兵の進撃作戦
(本文略)
活動4.全国各地で義兵が起こる
義兵抗争は執権層の腐敗と無能、外国勢力の侵略で国家と民族が危機に瀕しているときに起こった代表的な救国運動だった。彼らの活動を知ってみよう。
(資料1.)8道の学者、民衆たちよ立ち上がれ
(資料2.)外国のやつらにくっついていくやつらは出て行け
(資料3.)義兵の隊列に集まってきた様々な階層
(写真) 義兵部隊のようす
農民と儒学者たちがひとつになった義兵戦争
ソウル進攻計画が失敗した後にもホナム地方を中心として義兵運動が熾烈に展開された。ホナム義兵は民衆たちの広範な支援の下で神出鬼没な遊撃戦を戦った。儒学者の義兵将たちも農民とひとつになって日本軍と戦った。ホナム義兵の粘り強く強力な抵抗は日本軍の主力をホナムというひとつの地域だけにしばりつけて、他の地域での義兵活動を間接的に援助した。
日帝は過酷な弾圧を通じて全国各地で活動する主要義兵たちの抵抗を押さえつけるためにホナム義兵たちを処分することにすべての手段を動員した。1909年9月から2ヶ月の間、ホナム地方を海岸と陸地からいっせいに封鎖した後まるで髪をすくように反復して攻撃し、いわゆる”南韓大討伐作戦”をおこした。ホナムの各地域は日本軍の無慈悲な殺戮、放火、略奪などで瓦礫の山と化した。
1910年大韓帝国が日本に完全に併合されると、国内で義兵抗争をおこすことがしだいに難しくなった。小規模の義兵部隊が散発的に活動するだけになった。これにつづき大部分の部隊は同胞たちと後日の再会を約束して満州と沿海州地方に渡り、その地で独立運動の新しい根拠地を準備した。このようにして満州ではホンポムド、沿海州にはイボミュンなどが率いる独立軍勢力が成長するようになった。
日帝の侵略を阻止して国権を回復しようとした義兵抗争は日帝の植民地政策に大きな打撃を与えた。日帝がウルサ条約を強制的に締結した後、大韓帝国を完全に併合するまで5年もかかったことは義兵抗争も大きな要因として作用した。
人物の横顔
ゲリラ戦法にたけているトンソサン作男のアンギュホン
(本文略)
(写真) ホナム地域の義兵将たち(1909)
(本文略)
義士と烈士たちの反日闘争
義兵戦争と同時に、義士、烈士たちの半日闘争も相次いだ。アメリカに留学中であったジャンインウォンとジョンミョンウンはサンフランシスコで日帝の手先として日本の大韓帝国侵略行為を宣伝したとき先頭に立っていたアメリカ人スティーブンスを殺害した。この事件は以後、反日民族運動の展開過程で”義烈闘争”という新しい章を開いた。
沿海州で義兵活動をしていたアンジュングン(安重根)は満州のハルビンで韓国侵略の元凶である伊藤博文を射殺した(1909年)。アンジュングンは自身の行為を韓国の独立主権を侵略して東洋平和を攪乱させた罪で処刑したのだと明らかにした。
親日派に対する処断運動もいっしょに展開された。イジェミョンは親日派イワニョンを狙撃したが成功しなかった。ナッチョル、オギホなどはウルサ5賊(ウルサ条約に調印した5人の大臣)を処刑するために暗殺団を組織することもした。
義士、烈士たちの闘争は個人に依拠し散発的に起こったが、組織的な反日抗争として継続できなかった。しかし日帝の侵略を国内外に知らせて愛国心を高めるきっかけとなった。
(写真) アンジュングンの指を切って出た血で書いた血書はがき(左側)
イジェミョンとその同志たち(右側)
(本文略)
歴史の現場で
地図の上から消えたチェッチョン
(本文略)
主題4.愛国啓蒙運動の展開
はじめに: ”我が大韓が以前に自強の方法を探究せずに人民がそれぞれに愚昧なことに固くなり国力が衰退していって、とうとう今日の厳しい状況になって他の国の保護を受けるようになってしまった。これはすべて自強の方法に意味を置かなかったためだ。”(大韓自強会、趣旨文)
大韓自強化が目指そうとした自強の方向はどんなものだろう?
国権を回復しようとする愛国啓蒙運動
1898年独立協会が解散させられた後、開化派の命脈をつないでいた啓蒙運動家たちは1905年になってウルサ条約に前後して大衆に対する啓蒙活動を始めた。彼らは教育と産業を育てて実力を養成し、国権を回復しなければならないと考えた。
最初に作られた団体は日帝の土地収奪を防ごうとして組織された保安会だった(1904年)。その後啓蒙運動家たちは1905年に憲政研究会を組織して大衆啓蒙運動を広げた。ウルサ条約締結以後、政治活動が難しくなると啓蒙運動家たちは憲政研究会を大韓自強会に改編した。大韓自強会は全国に25の支部を置いて月報を刊行する一方、定期的な演説会を開いて活動領域を広げていった。しかし大韓自強会は政治運動よりは教育・言論・宗教など文化運動に重点を置いた。
日帝は新聞紙法、保安法を作って反日的政治活動を弾圧して自分たちの侵略政策に対立しない文化運動だけを許容した。1907年には韓・日 新協約に反対してソウル市民を扇動したという嫌疑で大韓自強会も
解散させられてしまった。その後身として大韓協会が組織されたが、会長のユンヒョジョンが伊藤博文を”朝鮮の幸福を増進する人物”と礼賛するほど親日的色彩が明確になった。1910年、韓・日 併合の時には日進会と功労を競うほどになってしまった。
10月 29th, 2009
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第2章 開化運動と近代的改革の推進
この章では:
・開化思想の形成背景と開化運動の展開過程を理解する
・開化以後、朝鮮政府が推進した開化政策の性格を認識する
・衛正斥邪運動の性格と展開過程を把握する。
・甲申政変の14か条の条項を分析して急進開化派が志向した社会の性格を把握して、国民の支持を受けられなかった理由を探求する。
開港以後政府は富国強兵を目標にして開化政策を推進した。しかし、開化に対する認識が財政不足などのために、充分に成果をあげることができなかった。開港に前後して形成された開化派は初めは政府の開化政策に一緒に参加した。しかし、開化の方法と速度、ならびに外交政策をめぐって穏健な開化派と急進的開化派に分裂してしまった。さらに、保守的儒学者たちは政府の開化政策に反発し、衛正斥邪運動を始め、近代的改革をめぐっての内部の葛藤が大きくなった。
このような葛藤は壬午軍乱と甲申政変につながった。これを契機として、朝鮮をめぐっての日本と清の対立が深刻化し、結局清・日戦争につながった。清・日戦争で日本が勝利した後、開化派官僚たちは甲午改革と乙未改革を推進した。しかし、このような改革は日本の侵略を招き斥邪儒学者と多くの民衆の反発を引き起こした。
主要年表
1876 第1回修身使派遣(日本へ)
1881 朝士視察団派遣
1882 壬午軍乱
1884 甲申政変
1894 甲午改革
1895 乙未改革
主題1.開化勢力の台頭
はじめに: ”昔には正しかったことが今では正しくないことがあって、あちらではよいことがこちらではよくないことがある、すなわち古今の情勢を調べて、お互いの事情を比較してその長所を採用し、その短所を捨てることが開化の大道だ。”(ユギルジュン、西遊見聞)
このような開化思想が現われた社会的背景はなんだろうか?
開化思想家たちの登場
(本文略)
あちらに回ればアメリカが、こちらに回れば朝鮮が中国だ。
(本文略)
活動1.開化思想はどのように形成されたのか?
19世紀中ごろに現われはじめた開化思想の形成背景を知ってみよう。
資料1.開化思想の先駆、北学思想
(本文略)
資料2.開化思想の産室、朴キュスの家、サランバン
(本文略)
資料3.朴キュスが見た朝鮮の情勢
(本文略)
資料4.開化思想の先駆者
(本文略)
資料5.開化派の形成
(図)
二つに分裂した開化派
開化派は1880年代になると開化の方法、速度ならびに外交政策などをめぐって穏健な開化派と急進的な開化派に分裂した。
キムホンチプ、オユンジュン、キムユンシクなど穏健な開化派は清の洋務運動を手本として伝統的な儒教思想を守りながら西洋の科学と技術を受け入れようと主張した。彼らはまだ社会が成熟していないと考え、ゆっくりと開化政策を推進しようとした。あわててやろうとすると保守派の反発を引き起こして開化をさらに難しくしてしまうと憂慮したのであった。彼らは外交政策面でも伝統的な友好関係を結んでいた清との関係を重要視した。
反面、キムオッキュン、パクヨンホ、サガンポムなどの急進的開化派は日本の明治維新を手本にして西洋の科学と技術だけでなく、思想や制度まで積極的に受け入れることを主張した。彼らははやくから明治時代日本の制度と文物に関心を抱く反面、日本の政治家および知識人たちと交流して関係を深めようとした。そして非常に慎重に開化を推進しては外国勢力の干渉がもっとひどくなって開化の努力が失敗に終わってしまうかもしれないと判断した。
穏健な開化派は閔氏の政権に積極的に参与して開化政策を主導した。反面、急進的な開化派は政府の改革が非常に消極的だと批判した。このような葛藤は壬午軍乱の後、清の内政干渉がますますひどくなるにつれてますます大きくなった。
もう一歩すすんで学ぼう
文明開化論と東道書記論に分かれる
(本文略)
(写真)開化派の同志たち。甲申政変直前の様子で、ユギルジョン、ソガンポム、ミンヨンシクなどの姿が
見える。
主題2.開化政策の推進と反発
はじめに:”(日本では)金貨と銀貨はすべて外国人の手中に入っていって一般庶民が使うことがなくなって久しくない銅銭か、昔のお金と鐘の切れ端だけだ。このような理由で国家財政は日増しに枯渇していって
一般庶民の困窮ぶりはますますひどくなり、物価は上昇し貨幣の価値は大きく下がってしまった。”(パクジョンヤン全集)
パクジョンヤンの目に映った日本の近代化の問題点は何か?
開化政策の推進
開港をした後、政府は大小の反対にもかかわらず粘り強く開化政策を推進した。まずはじめに統理機務衙門という新しい機構を設置して、その下に12司を置き、外交、軍事、産業など各分野の業務を担当させた。軍事制度面では5軍営を武衛営、壮禦営に統合し、国王の軍部掌握力を高めた。さらに新式の軍隊である別技軍を創設して、日本人の教官に近代的軍事訓練をさせて、士官学校の生徒を養成した。
政府は行政と軍事改革などに必要な情報と参考資料を収集するために日本と清に使節を派遣した。日本に派遣された朝士視察団は約3ヶ月の間日本の政治、軍事、教育、交通、農業、科学技術など多様な先進的文物をじっくり見て帰国した(1881)。清国には金ユンシクを領選使として留学生と技術者を送り、武器製造法と近代的軍事訓練法を学ばせた(1881)。しかし派遣された学生たちは近代技術に対する基本的知識が足りなくて、政府の財政支援も不足していたため、期待した充分な成果を得る事ができなかった。
このような政策はいままで政府がとっていいた斥邪政策をすてたことを意味していて、その反響は小さいものではなかった。
もう一歩すすんで学ぼう
高宗、開化に関する教書を下す
(本文略)
高宗実録、1882年8月5日
日本の近代化を見ている二つの目、重なり合う診断と評価
19世紀の末、朝鮮は外国と通商を拒否することで中国に従おうするのか、日本のように外国の文物を受け入れて改革を推進するのか、という分岐点に立っていた。1881年高宗の密命により日本の近代文物を視察し、帰ってきた朝士視察団と高宗の対話から朝鮮がどんな道をすすもうとしていたのか推察してみよう。
資料1.何もきづかれないようにせよ。
(本文略)
資料2.日本は本当に強いなあ
(本文略)
資料3.日本は西洋ばかりを模範としているから失うものも多いのではないか。
(本文略)
反外国勢力を叫んだ衛正斥邪運動
開港に前後して開化思想に対する関心が高まると、保守的儒学者たちを中心として衛正斥邪運動もさらに活発になった。衛正斥邪とは正学である性理学を守って他のすべての宗教と思想を排撃するというものだった。
衛正斥邪論者たちは1860年代には次第に激しくなった西洋の通商要求に直面して通商反対運動を展開した。通商要求が武力侵略として引き継がれると斥和主戦論を強力に主張し、興宣大院君の通商修好拒否政策を後押しした。1876年江華島条約を結んだ頃には倭洋一体論、開港不可論を唱えて開港反対の運動を展開した。
衛正斥邪運動は政府がアメリカと通商条約を締結しようとすると、絶頂に達した。全国の儒学者たちは政府がホアンチュンセンの”朝鮮策略”にしたがって西洋と通商しようとしていると考えてこれに反対する上訴を上申した(1881)。その代表的なものがイマンソンが中心になって嶺南の儒学者たちが集団的に上訴した”マンインソ”だった。このような運動は西欧の文物が伝統的性理学体制を倒して農村経済を破滅させるので国家が滅びてしまうことになると憂慮しておこったものだった。
しかし、衛正斥邪運動は”朝鮮はすなわち小さい中国”だという自負心と伝統的性理学体制から抜け出せないという限界をあらわにしていてその基盤が次第に弱くなっていった。これによって在野の儒学者たちの間に西洋の技術文明と政治思想を認定しながら自分の伝統的文化を発展的に継承しなければならないという考えが芽生え始めた。そして民衆と一緒に国権回復運動に参加し、近代民族運動に合流する新しい傾向も生まれた。
もう一歩すすんで学ぼう
チェイクヒョンはどうして通商することに反対したのか?
(本文略)
(写真) 開港反対を主張した儒学者・チェイクヒョン
活動3・”朝鮮策略”がもたらした波紋
金ホンチブが第2次修信使として日本に行ったとき清の外交官チュンセンが書いた”朝鮮策略”を持ってきた。この本の流布にともなう儒学者たちの反応を知ってみよう。
資料1.ロシアを防ぐことが朝鮮が打ち立てなければならない策略だ。
(本文略) ホアン・チュセン、朝鮮の策略
資料2.アメリカはもともと我々が知らない国だ(イマンソン ウェ、ヨンナムマンインソ)
(本文略)
資料3.利益になるくらいのことは選択しなければならない。
(本文略)
旧式軍人と民衆が協力した壬午軍乱
政府が推進した開化政策に対して保守的儒学者たちだけでなく旧式軍人とソウルの下層階級の人々の間でもますます不満が高まっていった。米、豆など穀物の一部がソウルに来ることなく日本に輸出されて穀物の価格が上昇し、新式の軍隊である別技軍だけ優遇され、旧式軍人たちには月給がまったく支給されなくなったためだ。
1882年6月になると、旧式軍人たちは1年以上も月給をもらえなかったが、やっと受け取る1ヶ月の月給に糠と砂が半分以上も混じっていて最後には暴動を起こした。都市の下層階級の人々もそれに加担し、軍乱の規模は食い止めることができないほど大きくなった。彼らは政府の教官を殺して日本の公使館を襲撃した。宮城が蹂躙されて王妃が逃避する状況になると高宗は興宣大院君に政権をまかせた。
ふたたび執権を取った興宣大院君は軍乱を収拾する一方で、政府の開化政策を中断させた。ムイヨンとチャンオヨンをなくして代理5軍営を復活させて、統理機務衙門を廃止した。しかし清の介入で状況は変わってしまった。閔氏の政権の要請を受けた清は迅速に軍隊を朝鮮に派遣した。そして軍乱の責任をとらせるために大院君を清に押送した。
このときから清は朝鮮に軍隊を駐屯させて、朝鮮の内政と外交問題に深く関与するようになった。さらに。朝・清平民水陸貿易章程締結を強要して自国の商人が朝鮮経済に浸透できるようにした。
このような経済浸透は朝鮮の商人たちに大きな打撃を与え、一般庶民のあいだでは反日感情とともに反清感情が大きくなった。反面、朝鮮は日本と済物浦条約を締結し、賠償金を支払い、日本公使館の警備兵駐屯を承認した。
歴史の現場で
死んだと公表された王妃、清軍の護衛を受けて戻ってきた
(本文略)
朝鮮に対する影響力を大きくしようとした清と日本
壬午軍乱は開港以後はじめて起こった反政府、反外国勢力の抵抗運動だった。しかしこれを契機として清と日本は朝鮮に対する影響力強化を強め、本格的に対立するようになった。資料を通じてこれに対して知ってみよう。
資料1.壬午軍乱後の処理のための済物浦条約
(第1条)今日より20日以内に朝鮮国はヒュンドを逮捕し、その親分を厳重に取り調べ重罰に処す
ること。日本軍は官吏を送り立会い処断をする。万一その期日内に逮捕できないときは
必ず日本国が処理する。
(第3条)朝鮮国は5万ウォンを出して損害をこうむった日本の官吏たちの遺族ならびに負傷者に
支払うようにする。
(第4条)ヒュンドの暴挙で日本国が受けた損害ならびに公務を護衛した陸海軍経費のうち50万ウ
ォンは朝鮮軍が支払う。毎年10万ウォンづつ5年間で完納する。
(第5条) 日本公使館に軍人若干名を置いて警備させる。その費用は朝鮮国が負担する。
資料2.メレンドルフの外交権独占
外務官僚たちはみな彼(メレンドルフ)の任用を受け入れた。私(アメリカの大使)がかりに外務衙門に行って仕事の相談をしてもどんなことでも最後はメレンドルフが決定してしまうのだ。そのため今後は私は仕方なくメレンドルフと仕事の相談をせざるを得ない状態だ。(ユンチホ日記、1884年5月24日)
(写真)メレンドルフ。メレンドルフは清駐在のドイツ領事館で勤務してきたがイホンジャンの推薦で統理衙門と統理交渉通商事務衙門でそれぞれ参議と協判を務めて外交と税関業務を担当した。開化方法をめぐって金玉均などの急進的開化派と対立した。
銅銭の国号まで干渉したウィアンスカイ
ウィアンスカイは(朝鮮に来た後)次第に朝鮮の王室と政府に手を伸ばし始め、最後には干渉をしないことはなかった。とうとう、ウィアンスカイの干渉は銅銭の国号にまで及んだ。清政府は大きな国であって朝鮮は小さい国だから”大朝鮮”という称号は小さい国としての格にあわないとして、”大”の字を書けないようにした。
開国501年(1892年)に作られた5両銀貨、5分銅貨に刻まれている”大朝鮮”の字はウィアンスカイが批評するまえに作られたので”大朝鮮”となった。しかし開国502年(1893年)から作られたお金はみな大の字がなくなり単純に朝鮮開国とかかれるようになった。
主題3.甲申政変
はじめに: ”はじめからパクヨンヒョなどは日本とか西洋とかと通じて富強を享受しようとしたが、以前の国のやりかたをすべてすてて西洋の制度を学んで開化の果実を結ぼうと尽力した。”(ホアンヒョン、メチョンヤロク)
パクヨンホなど急進的開化派が作ろうとした国とはどんな国なのか?
急進開化派チェフの選択
壬午軍乱以後、清の内政干渉が強化されて開化派の官僚たちの間では清との関係をどのようにしたらよいのかをめぐって葛藤が大きくなった。穏健な開化派は清の干渉を積極的に拒否することができなくて受け入れるだけだったのに対して、急進的開化派は清の干渉で政府の開化政策が円満に推進できない現実を強力に批判した。
金玉均は改革が思い通りにすすまないと、日本に渡って借款を導入して改革資金を準備することまでした。しかし、日本側の事情でその意志を遂げることができなくて急進開化派の立場はますます悪くなった。とうとう急進開化派は非常手段を使っても閔氏政権を倒して自分たちが考えていた開化政策を推進しようとした。
折しも、ベトナム問題で清仏戦争が差し迫ると、清は朝鮮に駐屯していた兵力の一部を撤収させた。急進開化派はこれを絶好の機会と考え、政変を計画した後、日本に支援を要請した。日本の支援を受けて清軍の反撃を防いで改革に必要な財政問題を解決しようとした。
急進開化派の要請に対して日本も支援を約束した。急進開化派を助けて朝鮮侵略に邪魔になっていた清と閔氏政権を追放して朝鮮で友誼を独占しようとしたためだ。
もう一歩すすんで学ぼう
急進改革派はどうして政変を起こすことになったのか?
(本文略)
甲申政変、3日天下で終結
急進改革派は郵政総局開局祝賀宴を利用して閔氏政権の高位官僚たちを殺害し、新しい政府を樹立した(1884年)。つづいて14か条の政綱を準備して清に対する従属関係を清算して、人民平等権の制定と能力に応じた人材登用を標榜した。さらに行政組織の改編と租税制度の改革を模索した。日本の明治維新を手本として近代国家を建設しようとしたのだった。しかし甲申政変は清軍の介入によって3日天下で終わってしまった。
甲申政変はわが国ではじめて近代的国民国家を建設しようとした事件として大きな意味があった。さらに両班、地主層の一部が中心になって近代化をもくろんだという点で甲午改革の手本となった。
しかし急進改革派は日本の日本の侵略的意図を認識することができなくて武力支援を受けて政変を起こしたために大多数の官僚と一般庶民の支持を獲得できなかったために、かえって外国勢力の朝鮮侵略を促進する結果をもたらした。さらに、農民たちの希望である土地問題の解決に積極的に乗り出さなかった。
甲申政変の当日に爆薬を爆発させたある女官
(本文略)
活動5.急進改革派がめざした社会とは?
甲申政変のとき発布された改革案を通じて急進改革派が作ろうとした社会のありかたを知ってみよう
(資料 急進改革派がめざそうとした社会)
(14か条の政綱)
朝鮮を取り巻く列強の対立
甲申政変以後、清は余勢にのってさらに露骨に内政干渉を行なった。日本も侵略の足場を失わないために清と談判して朝鮮で清・日 両国の軍隊がすべて撤収することと、これから朝鮮に軍隊を派兵する場合にはお互いに通告することを内容とした天津条約を締結した(1885年)。
このような情勢の下、政府は清の干渉から抜け出すためにロシアを引き入れた朝・露 秘密協約を推進した。この計画は清の妨害により失敗したが、政府は西洋の高文官を招聘してアメリカに全権公使を派遣するなど自主的外交政策を粘り強く推進した。
反面、甲申政変で清と日本が鋭く対立すると西欧列強諸国も韓半島問題に関心をもつようになった。英国は朝・露 秘密協約が噂として伝わってくると、ロシアの南下に準備するという口実で巨文島を占領した(1885年)。すでに韓半島は列強諸国の対立で国際紛争に見舞われる危険性が大きくなっていった。
これに朝鮮駐在のドイツ副領事は韓半島の中立化を朝鮮政府に建議した。しかしプドロの中立化論は天津条約で朝鮮の安全を保障しているとしてあいまいにされて、ユギルジュンの中立化論も閔氏政権がユギルジュンを急進開化派と考えて排斥したため構想段階で終わってしまった。
もう一歩すすんで学ぼう
拒否された中立化論
(本文略)
主題4.近代的改革の推進
はじめに: ”わが国の政府は王の命令を受けて校正庁を設置した。堂上官15名をおいてまず悪政のいくつかを改革したがみんな東学党が主張してきたことだ。これからしだいにすこしづつ改革を推進して日本人が加わって入ることを防ごうとした。”(金ユンシク、俗音青史)
政府はどうして東学農民軍の主張を受け入れて、どんな方向に改革を推進しようとしたのか?
自主的会改革を指導
甲申政変以後にも朝鮮政府は転換局を維持して光武局を新しく作って近代的産業技術を粘り強く導入した。さらに農務牧畜試験場を設置して農業技術を開発し、育英公園の設立と西洋医術を導入するなど西欧の文物を取り入れようとした。
そのような中、東学農民運動を原因として、清・日本の両国の軍隊が朝鮮に入ってきた。予想外の状況に驚いた政府は農民軍と全州和約を結んで、大々的な改革を約束して両国の軍隊の撤兵を要求した。しかし日本は内政改革を大義名分として撤兵を拒否した。これに政府では日本の内政干渉にたいして抵抗するために校正庁を設置した後、農民軍の要求を一部受け入れて自主的な改革を推進しはじめた(1894年)。
反面、日本は軍隊を動員して景福宮を包囲し、占領した後、閔氏一派を追放し、清と戦争を始めた。結局、日本の威嚇のうちに閔氏政権は崩壊し、興宣大院君を摂政とする第1次金弘集内閣が設立された。そして彼らを中心として軍国機務処を設置し、改革を推進していったが、これを甲午改革と呼ぶ(1894年)。
もう一歩すすんで学ぼう
校正庁を設置して日本の政府に軍隊の撤収を要求した
(本文略)
甲午改革の展開
第1次改革はまず王権を弱くさせて内閣の権限を強化する方向で進められた。国政と王室機構を議政府と宮内部に分けて西洋の制度を参考にして内務、度支、軍務などの8衙門に変えた。さらに、科挙制度を廃止して、人物本位の新しい官吏任用制度を整備した。経済面でも財政機関を度支衙門に一本化し、銀本位制度の貨幣制度を実施して商品流通を円滑にして度量衡を統一しようとした。第1次改革案は甲申政変の政綱とか農民軍の要求を相当多く受け入れた近代的な改革案だった。
清・日 戦争で勝利を獲得した日本は内政干渉を本格化させた。日本はまず軍国機務処での興宣大院君勢力を追放した。つづいて甲申政変の主導者だった朴ヨンヒョを内務大臣に据えて第2次金弘集内閣を出帆させて軍国機務処を廃止した。反面、日本は第2次金弘集内閣の出帆に前後して朝鮮政府が日本人高文官を採用するように強要した。そして高宗にして”洪範14条”を頒布させるようにして清の干渉と王室の政治介入を絶対に排除した。
第2次改革は日本人高文官の統制下でさまざまな方面でわたって断行された。まず、議政府を内閣に改めて7部を置いた反面、地方の8道は23部に改編した。そして裁判所を置いて司法権を行政機関から分離・独立させて、警察権を一元化してソウルの治安を担当させた。さらに漢城師範学校を設立して外国語学校管制を発表した。しかし日本の内政干渉で朝鮮の国権は揺さぶられ、軍制改革の不備のため国防力が弱化された。
反面、日本のヨドン(遼東)半島占領がロシア、フランス、ドイツ3国のために挫折させられると(三国干渉)、甲午改革は危機を迎えた。これに親日勢力が政局主導権を失うまいとする中で朴ヨンヒョが政変をもくろもうとしたという嫌疑をかけられて日本に亡命した。
もう一歩すすんで学ぼう
ロシア、フランス、ドイツの3国が日本の勢いを押さえつけた
(本文略)
(写真)下関条約締結場面
強行された乙未改革、抵抗する民衆たち
朴ヨンヒョが日本に亡命した後、穏健な開化派を中心として第3次金弘集内閣が成立した。第3次金弘集内閣には親日開化派より親露派がずっと優勢だった。国内の情勢が変わると王室はロシアとアメリカの力を借りて日本の内政干渉を追い払おうとした。高宗は親露派の人物を登用して親米・親露政策を標榜し、排日政策を強化した。危機意識を感じた日本はこのような状況に対処するために軍人出身の三浦を駐韓公使に任命した。とうとう日本は弱った勢力を挽回するために新人公使である三浦の主導のもと、排日政策を主導してきた王妃を弑殺するという蛮行を犯した(乙未事変、1895年)。
金弘集内閣(第4次)は乙未事変を機会に再度改革に拍車をかけた。まず、太陽暦で正朔(正月元旦)を定め、種痘法と断髪令を試行した。さらに小学校を設置して郵便事業を開始した。そして年号を定め、1896年1月から”建陽”という新しい年号を使い、軍制を変更し、中央に親衛隊、地方に真偽隊をそれぞれ置いた(乙未改革)。
金弘集内閣が太陽暦を試行すると、乙未事変で激昂していた儒学者たちと農民たちの反日・反政府感情は爆発してしまった。彼らは全国各地で義兵を起こして親日地方官を処断して政府と日本軍を攻撃した。
歴史の現場
外国公使館報告を通じて見た明成皇后虐殺の真相
(本文略)
(写真)明成皇后のお墓(景福宮内)
活動6.甲午・乙未改革の評価
甲午改革と乙未改革を通じてひきつづく政治・経済・社会の各分野も内容を理解し評価してみよう。
資料1.洪範14か条
(本文略)
資料2.甲午・乙未改革
(表)
(写真) 宮城およびソウル都城を守備していた親衛隊
開化をめざしていた人々
金玉均(1851〜1894) (本文略)
ホンヨンシク(1855〜1884) (本文略)
金弘集(1842〜1896) (本文略)
オユンジュン(1848〜1896) (本文略)
ミンヨンイク(1860〜1914) (本文略)
朴ヨンヒョ(1861〜1939) (本文略)
考えてみよう: 自分が当時、生きていたとするなら、どんな人物になっているか考えてみてその理由を話してみよう。
10月 18th, 2009
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第1章 外国勢力の侵略的接近と開港
第2章 開化運動と近代的改革の推進
第3章 救国民族運動の展開
第4章 開港以後の経済と社会
第5章 近代文物の受容と近代文化の形成
愛国歌
アジアで大朝鮮の
自主独立は自明のことだ
(合歌)やーやー国を愛せよ
国の為に死んで見せよ
粉骨砕身で
忠君愛国を
深い眠りからさめて
富国強兵で進歩せよ
心をあわせて一心同体
西欧勢力の東進を防いでみせよ
男女の区別無く入学して
世界の学識を学んでみよう
八卦の国旗を高く掲げて
全世界に堂々と進み出よう(独立新聞 1896年5月9日)
第1章 外国勢力の侵略的接近と開港
この章では
・19世紀後半に台頭した帝国主義列強の侵略でアジア・アフリカの大部分が植民地または半植民地になったことを知る。
・興宣大院君の対内的、対外的改革政治の内容を知ってその限界を把握する。
・江華島条約の内容の中で不平等条項を把握して、他の列強と結んだ通商条約も不平等条約であったことを理解する。
19世紀後半になると、アフリカとアジアで植民地争奪をはじめた西欧資本主義列強は朝鮮にも手を伸ばした。国内では興宣大院君が執権を握り社会改革を通じて統治政策を再整備し、西欧列強と日本の威嚇的な通商修好要求を拒否したことで、民族的危機を克服しようとした。
ところが興宣大院君は王権の位を高めるために景福宮を改築しながら様々な弊害をもたらし民心は動揺した。そんなときに興宣大院君政権の社会改革に反発していた保守的両班たちは高宗の親政を要求して興宣大院君は権力の座から退いた。
これに日本は雲揚号事件を起こして朝鮮に通商修好を強制的に要求してきた。政府も開港の必要性を感じていたためにここで応じた。しかし国際法と国際情勢になれていなかった朝鮮政府が日本と結んだ江華島条約は不平等条約だった。続いて西欧の列強と結んだ条約も同様であった。これによって朝鮮は次第に帝国主義列強の侵略戦争の舞台へと変わってしまった。
主要年表
1840 アヘン戦争
1850 太平天国運動
1866 丙寅洋擾(フランスが江華島を侵犯)
1871 辛未洋擾(アメリカが江華島を襲撃)
1876 江華島条約締結
1882 朝・米修好通商条約締結
主題1 19世紀後半の世界
はじめに: ”私が生まれる前から教室ごとに世界地図がかかっていた。・・・・我々はこの地図を見るたびに全世界に生きている人々がわが国の国旗を振ってわが国の国王に向かって’国王陛下万歳(英国国歌)’歌ったことを想像しただけでじいんと戦慄を覚えた。”(ぺリックス・クリン、帝国主義の革命)
もし我々がこの教室を見たらどんな気持ちになるだろうか?
地球は一つのパイ、力が強いものが独占する
帝国主義の形成過程と19世紀帝国主義列強がアジアとアフリカを占有するためにどれだけ熾烈に競争したのかを知ってみよう。
資料1.帝国主義の形成
産業革命→資本主義→第2次産業革命→独占資本主義・世界政策の推進→列強の世界分割→社会主義運動、植民地の民族運動
資料2.列強の中国分割(漫画)
ドイツが中国と書かれたパイの一切れを切りながら英国をにらみつけている。フランス、日本、ロシアももっと大きな獲物を取ろうとしていて、後ろでは中国が驚いている様子。
帝国主義の世界分割
19世紀の後半になると科学技術の進歩と産業革命の進展で資本主義が大きく発達した。先進資本主義の国家群は生産品の原料供給地と市場を確保して余剰の資本を投資するためにアジア・アフリカ太平洋地域を侵略した。イタリアとドイツの統一で絶頂に達した民族主義もしだいに侵略主義的性格に変質して植民地獲得競争に火をつけた。これら列強は世界を分割して支配したこの時期を帝国主義時代と呼ぶ。
アフリカでは英国が一歩すすんでスエズ運河を買収し、南方のケープタウンと北方のカイロを連結しようという縦断政策を推進した。フランスはアルジェリアを拠点として、東方のマダガスカル島に進出してアフリカを東西に連結しようという横断政策で対応した。このほかにドイツ、イタリア、ベルギーなどもアフリカ分割競争に参加した。
アジアでは英国がインドを、フランスがインドシナ半島を、オランダがインドネシアをそれぞれ植民地とした。続いてヨーロッパの列強は中国大陸にも手を伸ばして、中国は半植民地に転落してしまった。太平洋にあるいろいろな島も列強の植民地として分割された。
帝国主義列強の競争的な世界分割政策は最後に大きな衝突として続き、第1次世界大戦が起こった。
(地図)帝国主義列強の世界分割(1914年ごろ)。19世紀末から資本主義列強はアジア、アフリカ、地域を植民地として経済的に支配した。
東アジアの近代化と反帝国主義運動
アジア・アフリカの各国では帝国主義列強の侵略に対して多様な民族運動が展開された。東アジアの中国と日本でも帝国主義に対応する改革の始まりが起こった。
アヘン戦争以後、中国では洋務運動、変法自強運動が展開された。一方、一般民衆を中心として太平天国運動など反帝国主義運動が激烈に起こった。
日本は、政治、経済、法制、科学技術など西洋の制度を積極的に取り入れて明治維新を断行した。以後、近代化に拍車をかけた日本は軍備を増強して最後には中国と朝鮮を侵略し始めた。
中国と日本はどうして別の道を歩むようになったのか?
アジアの各国は列強の侵入に直面して近代化と伝統文化の維持という二つの課題を置いて内部的に葛藤を経験した。そしてこの課題にどのように自主的に対応したのかによって独立と近代化の速度が決定された。
資料1.中国の洋務運動
(本文略)
(写真)南京クンルン機器国の代表:中国は洋務運動の一環として西欧の近代的技術を取り入れて
武器製造に力を入れた。
資料2.日本の近代化論
(本文略)
(写真)福沢諭吉(右)と彼が創設した実業学校 慶応義塾
主題2 統治体制の整備
はじめに: (領議政の)キムビョンハクが申し上げた。”内では中央の官庁と、外では地方の官庁にいたるまで、およそ財政と租税がうまくいくことはすべて大院君が世の中を治めて民衆を救おうと苦心していたるところを正しく掌握したからだ。”(日星録、1869)
興宣大院君はどうして財政と租税をただしく掌握しようとしたのか?
興宣大院君執権当時の国内と情勢
19世紀中ごろ、朝鮮王朝は大きな疾風怒涛に包まれていた。長い勢道政治で支配秩序が崩壊していて、不正腐敗がますますひどくなり、社会機構までもが崩壊しつつあった。増える一方の様々な負担に耐えられなくなった農民たちは軍役を避けて逃亡したり、集団的に租税の減免を求める要求をした。特に収奪がひどかった三南地方ではほとんどすべての地方で農民蜂起が起こった。
商品を売るために中国へしょっちゅう来ていた西洋列強は朝鮮にも侵略の視線を投げかけていた。19世紀ごろから彼らは洋船に乗ってやってきたが、海岸を測量して通商を要求してきた。朝鮮の民衆はこのような新しい事態に大きな危機感を感じた。特に、英国とフランスの連合軍が1860年に中国の北京を侵略したという知らせが伝えられるとその衝撃はとても大きかった。
国の内外で危機が切迫すると、支配層内部でも租税制度をはじめとする改革の必要性に共感して、これに積極的に対応する政治勢力が伸張した。彼らは国内では社会改革を断行し、対外的には国力を育てて西洋の侵略を防ごうと主張した。こんななかで哲宗が死んで、高宗が幼い年で王位に就くと、国王の実父であったイハウンが大院君になって政権を掌握した。(1863)
文学の奥で
{ウンヒョングンの夢}に描かれた興宣大院君の様子は事実なのか?
(本文略)
洋船がむれになって押し寄せ、農民は蜂起して
次の資料を通じて19世紀中ごろ興宣大院君執権の頃の国内の情勢を理解しよう。
(資料) 農民の蜂起と洋船の接近(地図)
(写真) アメリカのコロラド号(1871年)
西洋船は大きさが大きく、見かけが異様に見えたから、”異洋船”と呼ばれた。このような船
は商船だといっていたが鉄砲と長銃で武装していた。
そのとき世界は
”国民の国民による国民のための”アメリカの南北戦争
(本文略)
(写真) リンカンのゲチスバーグ演説の様子
統治体制の再整備に努力したが・・・・
(本文略)
歴史の現場
有名女流歌手が景福宮の慶会楼に現る
(本文略)
興宣大院君の政治はどのように評価できるだろうか?
(本文略)
主題3.通商修好拒否政策と洋擾
はじめに: ”わが国が外国と通商を結ばないのは500年にわたって伝わってきた規範であって、中国の天子様をはじめ、皆が知っている事実だ。我々はこの間、伝えられてきたこのきまりを変えることはできない。すでに貴国が我々に回答させようとしているが、どんなことがあっても回答に値することは一つもない。”(龍虎閑録)
この文で推測してみると朝鮮政府が西洋の通商交渉に応じなかった理由はなんであろうか?
通商修好を拒否した
(本文略)
もう一歩すすんで: アメリカの歴史家が書いたジェネラル・シャーマン号事件
(本文略)
西洋列強の威嚇と対応
ナムヨングンの墓を盗掘しようとしたオッペルトが興宣大院君におくった威嚇的な手紙とヨンジョンチョムサが送った反論の手紙をよんで次の質問に答えてみよう。
(資料1)私の要求に応じなければ危険なことになる。(オッペルトの手紙)
(本文略)
高宗実録、1868年4月23日より
(資料2)おまえたちと同じ天を頂いて生きることはできない(ヨンジョンチョムサの返事)
(本文略)
高宗実録、1868年4月23日より
短い戦争、丙寅洋擾と辛未洋擾
1866年にフランスは丙寅迫害事件を口実にして7隻の軍艦を派遣し、朝鮮を攻撃した。(丙寅洋擾)
江華邑を占領したフランス軍はソウルに攻め込んでいこうという危険な状態となり、蛮行の限りを尽くした。
朝鮮政府はこの事態に直面して、軍隊を再編成し、防備を強化した。漢聖根と梁憲洙の部隊は文殊山城と鼎足山城でおのおのフランス軍を追い払った。フランスは鼎足山城の戦闘の敗北と朝鮮軍の頑強な抵抗のため江華島から撤退した。このときフランスの軍人たちは相当量の金銀と外奎章閣に保存されていた書物などを略奪していった。
丙寅洋擾以後にもアジアに勢力を伸ばしていたアメリカが朝鮮を見下し始めた。アメリカはジェネラル・シャーマン号事件を口実として何度も朝鮮に賠償金の支払いと通商条約の締結を要求した。興宣大院君はこれを拒否すると、アメリカは最終的に1871年に5隻の軍艦と1200余名の兵力で朝鮮を侵略した。(辛未洋擾)チョチジンを陥落させたアメリカはカンソンボを攻撃して来ると、魚在淵が率いる朝鮮の守備隊は最後まで屈することなく激戦を繰り広げた。アメリカはカンソンボを占領したものの、朝鮮政府の断固とした意思と、朝鮮の軍人たちの激しい抵抗に負けて敗退した。
政府は二つの洋擾から西洋の侵略を防いだ後、国防を強化してソウルのチョンノの街と全国各地に斥和碑を立てて通称条約拒否の意志を明らかにした。しかし世界情勢を認識できなくて西欧列強の侵略に対する適切な対策を打ち立てることはできなかった。
一方、日本から朝鮮を征伐しようという征韓論が提起されると政府は日本に対する警戒をいっそう強化した。すでに日本も西洋と同じように蛮人として認識し始めた。
(写真) 斥和碑
(図) 丙寅洋擾と辛未洋擾
(写真) 辛未洋擾のときアメリカの軍隊にとらえられた朝鮮の軍人たち
歴史の車輪
1866年に起こった丙寅洋擾は1970年代になっても通商修好と天主教布教をめぐっての朝鮮とフランスの間の戦争として知られているだけで、その過程でおこった様々な問題点は世の中に知られていなかった。その時、フランスの海軍がどんなことを犯したのか、何を略奪したのかが隠蔽されてきたのだ。
略奪された外奎章閣の図書、返還されねばならない。
1970年代後半になって、丙寅洋擾に関連した内容が紹介されて、フランスに住んでいる韓国人の書籍学者がフランス国立図書館別館で外奎章閣の書籍を発見し、国内に知らせたところ、外奎章閣の書籍返還問題が韓国政府とフランス政府の間で懸案事項としてのぼった。これに対して韓国政府は1991年にフランス政府に対して外奎章閣書籍が不当な方法で略奪されたことを根拠として返還してくれるよう要請した。
全く反応がなかったフランス政府は京釜高速鉄道事業で自国のTGVとドイツのICEが熾烈な競争をしていて、1993年ミッテランフランス大統領の訪韓を前に外奎章閣書籍を返還してくれることをほのめかした。結局外奎章閣書籍の処理をめぐって両国政府の間で協議が始まった。
しかしパリ国立図書館方の反対とフランス政府のあいまいな態度によって協議は遅々としてすすまなかった。その後フランス政府が何度も変更された協議案を示してきて難航を繰り返した。フランス政府はもともと約束したとおりに永久賃貸の方法で外奎章閣書籍を返還しようとはしないで、相互交換の方法で韓国政府が外奎章閣書籍に匹敵する文化財的価値をもった韓国国内の書籍をフランス政府に寄託することを要求してきた。しかし、このような要求は外奎章閣の書籍の不法な略奪性を隠蔽する結果を招来する側面から、今日多くの議論が沸き起こっている。
(写真)
(表) 無条件で文化財を返還した事例
オーストラリア 1977年にパプアニューギニアに略奪した文化財17点を返還
ベルギー 1977年〜1978年、コンゴに略奪した文化財を返還
オランダ 1978年インドネシアにプラジュニャパラミット像を返還
イタリア 1982年密輸入されたエクアドル文化財1万2千点を返還
英国 エチオピアから略奪された文化財を4回にわたって返還
イスラエル シナイ半島侵略後エジプトの遺物数百点を返還完了
米国 ユダヤ人が略奪した文化財を無条件で返還することを決定
(キム・ヒョンマン、文化財返還に関する国際法的考察、延世大学大学院学位論文、1997)
主題4.開港と不平等条約体制
はじめに: ”我々は雲揚号事件を調査するために江華島に行こうとしてきたのだ。もし朝鮮の代理が江華島に現われなかったらまっすぐソウルにもどっていただろう。季節が冬だから風と海がひどくて江華島まで行こうとしたら一週間ぐらいはかかってしまうので、そのことを知って準備をしてください。”
(黒田一行の釜山官吏に出した手紙)
日本のこのような脅迫を受けた朝鮮政府はどのように対応したのだろうか?
強制された開港、江華島条約
10年の間、全権を掌握していた興宣大院君が退いて、高宗が政治の前面に登場した。朝鮮政府の対外政策は少しずつ変化した。中国第一の外交関係からもしだいに離脱するようになった。ここでは中国にしばしば往来し、国際社会の動きに敏感になっていた朴珪壽、などの通商開化論が大きく作用した。
一方、日本は興宣大院君の下野以後、朝鮮政界の新しいうごきを看破して接近してきた。朝鮮政府も日本の征韓論に触覚をたてながら日本を通して間接的にも西欧に対する情報を知ろうとした。1876年日本は雲揚号事件を口実に強圧的に門戸開放を強要した。朝鮮朝廷の内部では通商に対する賛否両論が起こったが、朝鮮は結局日本と江華島条約(朝・日修好条約)を結び門戸を開放した。江華島条約に続き、付属条約と通章程が締結され朝鮮は日本と本格的外交関係に入った。
これらの条約のために、朝鮮での日本外交官の旅行の自由、開港地での日本居留民の居住地域の設定、日本の貨幣の流通が許容された。輸出入商品に関税を関税をかけることができなくなり、穀物が流出するのを防ぐことができなくなった。
歴史の現場で
釜山のトゥモッポで日本の商人が乱暴をした
朝鮮政府は日本との修好をただ伝統的な交流関係の回復ぐらいに認識していた。このようなときに起こった釜山トゥモッポ税関事件は外交関係に対する朝鮮政府のあいまいな考えを壊す契機となった。
朝鮮は江華島条約以後にも船が出入りして商品流通が活発なところに税金を徴収する税務署を設置して運営していた。1878年政府は日本と貿易でも徴集することにして朝鮮の商人から取るように長官に指示した。これに対して長官はトゥモッポに税関を設置して管理者に徴税の事実を通告した。
この処置が税金を払わない日本の商人にも間接的な影響を及ぼすと、日本は江華島条約に違反することだと抗議した。日本の商人たちは日本の軍人と一緒に税関の撤廃を要求し、武力的示威行為をして役所まで侵入した。これに対して役所は政府の指示を受けずに税関を撤廃することはできないと主張し商店街を一斉休業させ対応した。
この事件は結局朝鮮政府が日本の武力圧力に屈服して税関を撤廃することで決着した。
(写真) 釜山の日本人居留地(1910年ごろ)
江華島条約はどうして不平等条約なのか?
日本と結んだ江華島条約は朝鮮が他の国と結んだ最初の近代的条約だった。しかし不平等条約で、その後西欧列強と結んだ条約の先例になった。江華島条約を日本と中国が西欧列強と結んだ条約と比較してみよう。
資料1.江華島条約(1876)
第1条 朝鮮国は自主の国であって、日本と平等の権利を持つ。
第4条 朝鮮国は釜山の他に2箇所の港を開港し、日本人が来て通商を行なうことを許可する。
第7条 朝鮮国は沿海の島嶼と暗礁を調査しておらず非常に危険である。日本国の航海者が自由に沿海を
測量できるように許可する。
第10条 日本国人民が朝鮮国の港で罪を犯したり、朝鮮国人民に関係した事件はすべて日本国の役人が
審判する。
朝鮮・日本修好条約付則
日本国人民は日本国の様々な貨幣で朝鮮国人民の所有物と交換することができて、朝鮮国の人民は交換 した日本国の貨幣で日本から来るいろいろな物資を買うことができ、これで朝鮮国が指定した様々な港で日本の貨幣を人民相互間で通用させることができる。
資料2. 米国・日本修好通商条約(1858)
第3条 下田港のほかに次の場所を下記の期限に開港すること。神奈川、長崎、新潟、兵庫・・・・
第4条 すべての日本の輸入・輸出品は別途の規定のように日本の官庁に税金を納入する。
第5条 外国のすべての貨幣は日本の貨幣と同じ種類、同じ質量で通用することができる。
第6条 日本人に対して犯罪行為を犯したアメリカ人はアメリカの領事裁判所で調査した後、アメリカの法に
よって処罰する。アメリカ人に対して犯罪行為を犯した日本人は日本人の役人が調査した後に日本
によって処罰する。
資料3.南京条約(1842)
第2条 英国国民は家族や下人をつれて広州、アモイ、福州、寧波、上海で迫害されたり拘束されたりせ
ずに、商業に従事するために自由に居住することができる。
第3条 清は英国に香港を割譲し、英国は適切に認定された法律によって統治する。
第5条 これまで広州で通商に従事してきた英国の商人に強制的に清国政府の特許を受ける商人とだけ
取引を行なえるようにしていた慣行をなくして、だれとでも自由に取引ができるようにする。
第7条 第2条に従い、英国商人に開放された港で公平に決められた輸出入関税を設定する。
西欧列強と相次いで結んだ条約
朝鮮は1882年に西欧列強のなかで最初にアメリカと条約を結んだ。一時武力で通商条約の締結を成し遂げようとしたが、失敗したアメリカは朝鮮が日本と条約を結ぶや、ふたたび修好活動にでた。はじめに日本に斡旋を要請したが朝鮮側の拒絶と日本側の誠意のなさによって成功できなかった。しかしアメリカは清国を通じて修交好交渉を行なった。清国は国際社会で朝鮮に対する影響力を誇示してロシアと日本の勢力を牽制し、朝鮮・米国交渉の斡旋に積極的にうってでた。朝鮮政府もロシアの南下を牽制するためにアメリカと修好を検討していた。
朝鮮・米国修好通商条約も江華島条約と同じように不平等な条約で、領事裁判による治外法権はもちろんのこと、最恵国待遇まで規定されていた。ただ江華島条約と違って、比率は低いものの輸出入商品に対する関税条項が含まれていた。しかし、関税は満足にもらうことはできなかった。
朝鮮政府はその後相次いで英国、ドイツ、フランス、ロシア等と条約を締結し、国際社会の一員として外交舞台に登場した。しかし、これらの国々と結んだ条約も大部分が米国と結んだ条約と大きな差異のない不平等条約だった。朝鮮の開港は徹底した準備の後に結ばれたものではないので、特別な対策をたてないまま国際政治の状況の中にまきこまれてしまったのだった。
(表)朝鮮が各国と結んだ条約
条約 締結国 年度
江華島条約 日本 1876
朝・米通商条約 米国 1882
朝・清庶民水陸貿易章程 清 1882
朝・英通商条約 英国 1883
朝・独通商条約 ドイツ 1883
朝・伊通商条約 イタリア 1884
朝・露通商条約 ロシア 1884
朝・仏通商条約 フランス 1886
朝・墺通商条約 オーストリア1892
朝・べル通商条約 ベルギー 1901
朝・デン通商条約 デンマーク 1902
この時世界は
(絵)こころときめく汽車旅行
(本文略)
ポビンサ、アメリカへ行く
(本文略)
(写真) ポビンサ一行(1883)。前列左からアメリカ人ロウェル、ホンヨンシク、ミニョンイク、ソガンポム、
中国人オレダン、後列左からヒョンフンテク、日本人宮岡、ユギルジュン、チェギョンソク、コヨンチョ
ル、ピョンスら。
(写真) ミニョンイク一行の米国での大統領謁見のようす。ニュース週刊誌”ニュースペイパー”1883年
9月29日号に掲載された挿絵。
10月 3rd, 2009
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高等学校 韓国近現代史
発行 2003.3.1初版発行、 2009.3.1第6版発行
価格 4210ウォン
著者 キムハンジョン、ホンスンゴン、キムテウン、イインジョク、ナムグンウォン、ナムジョンナン
1・ 韓国近現代史の理解
第1章 近代社会の胎動
主題1.商品貨幣経済の発達と身分制の動揺(本文略)
主題2.民衆の意識の成長と実学の台頭(本文略)
第2章 近代社会の特性
この章では
・19世紀後半から20世紀初頭にかけての時期に近代化のための努力と外国勢力の侵略に抵抗する民族運動が粘り強く展開されたことを理解する。
・日帝に対抗する民族独立運動が武装独立戦争、義兵活動、民族実力養成運動、民族文化守護運動などの多様な形態で推進されたことを理解する。
開港以後、朝鮮社会は新しい試練に直面した。社会の矛盾が極めて激しくなり、朝鮮に対する影響力の拡大をもくろむ列強間の確執は日増しに熾烈になった。これに我が民族は外国勢力の侵略を防いで、緊急に社会を改革して近代化をしなければならなくなった。開化運動、東学農民運動、義兵運動はそのような近代化を成し遂げるための代表的民族運動だった。しかし、このような努力にも関わらず、この時期の歴史的課題を解決できなかったために、日帝に国を奪われてしまったのだ。
たとえ国を奪われて、強圧的な日帝の植民統治に苦しめられても、わが民族はこれに屈することはなかった。1919年には3・1運動を起し、その後国内外でたゆみなく民族解放運動を展開した。国内では
労働者、農民、知識人、学生たちが主軸となって各種社会運動を通じて独立の意思を示した。沿海州、満州、中国管内、日本そして米国など海外でも抗日武装闘争や義挙を通じた独立運動をやめることはなかった。
(写真) 3・1運動記念レリーフ: 1919年4月1日チョンサン道アウネ市場では数千名の群衆が独立万歳を叫んだ。万歳の示威運動は非常に平和的だったが、数十名が死亡したり負傷して、指導者のユガンスンは日本の警察に逮捕され悪辣な拷問の末にあくる年に19歳の年齢で殉国した。
主題1.自主的近代化と反外国勢力民族運動の展開
はじめに: どのようにしたら我々韓国が十分に勝利の歌を歌って、生存競争を勝ち抜いて幸福と喜びを感じて、富強の基礎を開いて国民の威力ある気迫をだせるのか。これに対する答えはただ国民同胞が20世紀の新国民になることのみに存する。(シンチェホ、20世紀の新国民)
シンチェホはこのように日帝の侵略を防ぐために韓国人が新国民にならなくてはいけないことを力説した。それでは新国民とはどんな国民のことなのか?
近代化のための努力
19世紀中ごろ朝鮮は西欧列強の通商要求に直面した。これを拒否してきた朝鮮政府は1876年になって日本の強圧によって門戸を開放した。たとえ強制的におこったこととしても、開港は朝鮮社会に大きな変化をもたらした。
開港に前後して近代的改革の必要性を自覚した統治勢力はしだいに成長をし始めたが、彼らを開化派と呼ぶ。開化派の形成に先駆的な役割を果たした人たちは、パクキュス、オギョンソク、ユホンギなど一部の両班と中人が中心であった。彼らの影響を受けて、金玉均をはじめとしてキムユンシク、オユンジュンなどが開化運動を始めた。1880年代はじめに政府内部で改革路線が勢力が分裂し、執権勢力の閔
氏一派が清に依存するような態度を見せると、金玉均など急進派は甲申政変をおこした(1884)。政変は、失敗に終わり、開化派の近代化努力はその後にも甲午改革、光武改革、独立協会活動などへつながっていった。
開化派の近代化努力は結局失敗に終わったことは民衆の支持を得ることができなくて、外国勢力の干渉を防げなかったためである。特に、清・日戦争以後、日本は朝鮮の内政に露骨に干渉して侵略の野心をあらわにしたため、政府の自主的な近代改革を妨げてしまった。
反外国勢力の民族運動の展開
韓国の近代史は帝国主義から独立を勝ち取ろうとする民族運動の歴史でもある。西欧列強の通商要求が激しくなると、儒学者層を中心とした外国勢力に反対する衛正斥邪運動が起こった。開港以後、日本と西欧列強の政治的経済的浸透が日ごとに激しくなると、衛正斥邪運動はさらに拡大した。乙未事変と断髪令を契機として衛正斥邪運動は反日運動として発展した。
外国勢力に対する抵抗運動は農民層へも起こった。その頂点に達したのが1894年の東学農民運動であった。東学農民運動ははじめには官吏たちのむさぼりと社会制度の矛盾に対する反発として起こったが、後には日本の主権侵略に反対する戦争として全国的に発展した。農民軍は外国勢力の干渉を防ぐために政府と妥協して占領地域で自分たちが望む社会改革を推進した。東学農民運動は日本が、清・日戦争で主導権を掌握した後に、日本軍と政府軍の武力鎮圧で失敗に終わった。しかし、その精神は消えることなく義賊党運動、義兵運動につながっていった。
1904年、ロシア・日本 戦争に前後して義兵運動がまた起こった。特に1905年ウルサ条約強制締結以後には農民層の義兵参加が著しくなり、平民出身の義兵隊も多く登場した。1907年以後、義兵運動は多様な階層の人々が参加し、全国的に拡大しながら、日本と本格的な戦争として発展した。この頃啓蒙運動勢力も教育、産業、言論、国学などの分野で民衆の覚醒と近代化を促す自強運動を展開した。
文学の中に
青い鳥民謡のなかにこめられた意味
青い鳥民謡は東学農民運動が進行した時期に当時の情勢を比ゆ的に非難しながら、民衆の望みを歌ったものだ。
鳥よ鳥よ青い鳥よ
おまえは何をするためにやってきたのか
松の葉、竹の葉、青々と
季節が夏であることを知っているから
白雪はぶるぶると
雪の降る極寒期になったのか(チョンウプ地方)
鳥よ鳥よ青い鳥よ
緑豆の葉に座っている鳥よ
緑豆の葉が動いたら
おまえは死んでしまうことをどうしてしらないのか(ピョンヤン地方)
鳥よ鳥よ青い鳥よ
ピーチクパーチク歌っていたら
緑豆の花を落としてから
青色布地の商人の金持ちが
味がおいしくてさあ行けと(ウォンジュ地方)
青い鳥は清の軍人のことを言い、清の軍人の自信満々な出兵を’夏の季節’と、清・日戦争で日本に
賠償したことを’雪の降る極寒期’とたとえて歌ったもので、緑豆はチョン・ボンジュン(甲午農民戦争の指導者)指し示す。青い鳥民謡は清が威張りちらしながら東学農民軍を鎮圧しようとして朝鮮の民衆にひどい目にあった警告をこめている。
(写真) 東学農民軍の白山蜂起(民族記録図)
アジア各国で反外国勢力運動はどのように展開されたか?
19世紀末から20世紀初頭、西欧帝国主義列強は世界のあちこちで弱小民族を侵略した。アジアの各民族はこれに対してどのように対応したのか知ってみよう。
資料1.ベトナムの民族運動
(写真)フランスの侵略に抵抗したため逮捕されたベトナムの人々
(本文略)
資料2。アジア各国の民族運動(地図)
(写真) 中国の太平天国運動
(写真) インド セポイの反乱
(写真) フィリピン軍と米国軍の戦闘
(写真) オスマン帝国の青年トルコ党の革命
主題2.民族史の受難と独立運動
はじめに かつてアジアの黄金時代に/光り輝いた灯火の一つだったコリア/
その灯火がもう一度ともされる日に/おまえは東方の明るい光になるだろう
(タゴール、3・1運動10周年記念誌、東方の灯火)
インドの有名な詩人タゴールが書いた”東方の灯火”の前文だ。上の詩で”灯火がふたたびともされる日”とは何を意味するのだろうか?
民族史の受難、日帝の植民統治
1910年朝鮮は日帝に完全に併合されてしまった。日帝は朝鮮で物資や人力を収奪するだけではなく、植民地統治に必要な費用までも調達しようとした。このために土地調査事業を実施して、山林・鉱山・漁業などに対する収奪を強化した。これに対しての反発は軍人と警察を動員して抑圧した。3・1運動以後には
一時的に文化統治を標榜したが、その真意は我々民族を分裂させ運動を防ごうとすることにあった。
1930年代になると、日帝は満州事変(1931)を起こし、帝国主義侵略戦争を本格化した。朝鮮は、日帝の侵略戦争に必要な物資を供給する兵站基地に変わっていった。
1937年、中日戦争を起こした日帝は戦争に必要な物資と労働力の収奪にすべての力を尽くした。その負担は朝鮮民衆がそっくりそのまま引き受ける事となった。戦争が終盤になってくると、多くの朝鮮の民衆が戦争に動員された。数多くの若者たちが戦場の銃の弾を浴びることになったり、数十万にものぼる人々が日本、中国、南太平洋群島などの地にある鉱山、工場、建築現場の労働者として連行されていった。女性たちも戦争の手段として利用された。
(写真)東日銀行に掲げられたプラカード。このようなポスターとスローガンは日本帝国主義が総動員政策を構築するために使用した宣伝手段のひとつだった。
学習をもう一歩深めて; 徴用されて連行された労働者たちの体験談
(写真) 日本に連行された韓国土木労働者たちの悲惨な様子
頭にはしらみがうじゃうじゃして、背中の傷は腐ってきてひどくなってきた。ここでは朝鮮語を使ったらご飯を一食取り上げられてしまった。ご飯といっても豆をふかしてアンナンミと混ぜたものだ。汁は塩の汁で実が入っていない汁だ。のどが渇いて坑内の赤い水を飲んだら、ひどい下痢を起こした。それでも朝6時から夜11時まで仕事をさせられた。
酒やタバコ、薬品の配給は組から横取りしてお腹を満たした。当時1日の日給は2円35銭であって、宿泊所の家賃として1円50銭を引かれた。おまけに毎日おちる作業中の立腹で3円50銭を引かれいつも赤字だった。多くの人々が死んだ。原田組ではソウルから来た教養の有る名家の息子が逃亡しようとしたが戻されて大変ひどく殴られたということだ。
日帝は世界史その類例を見ることができないほど徹底して過酷な方法で我々民族を抑圧し収奪した。日帝の植民統治方法は他の国の植民支配と違う点を知ってみよう。
資料: 他の国では見ることができない日帝の植民支配
おおむね世間の強暴な日ごとに弱小な国を侵略して弱い種族を淘汰することに没頭するから、その侵略を受けたものはたくさん並んでいるのに、我々韓国のような国は無いようだ。古今の万国と比較して例をあげればスウェーデンがノルウェイ、オーストリアがハンガリーと合併したと言われるが、その民族の待遇は等級をつけることはできないが、韓国人もそのように言うことができるのではないか。トルコがたとえエジプトを併合したとしても、それでもその王をそのまま存続させ、祖先の祭祀をとりおこなうことを中断しないようにしたが、我々韓国の皇帝は蛮人から爵位を受ける立場になってしまった。英国がカナダなどの地でその憲法をもつことを承諾し、保障したり、議会を作らせてこれを維持するようにし、他の国と締結した条約をすべていちいち保障するようにしたのに、韓国人はこのようなことを獲得することができただろうか?
我々の韓国に対する施政は台湾で行なった政治と同じで異なるところが無かったが、台湾は国ではないのに、台湾と同様に扱っていたからこれは亡国としてもっと低い位のものとして扱っていたのだ。さらに
人々は服をひっかけて穀物としてお腹を満たしていたから、土を食べて湧き水をのむ虫と同じではないか。あの英国がインドとエジプトで、フランスがベトナムで、米国がフィリピンでたとえ強圧的な力でその国権を奪ったとしても、民衆の財産は実際その持ち主自身に保証されていた。日本は貧乏な国だ。貧しい民衆が多くて財政が日増しに窮してきて、負債は日ごとに増えていく。したがって過酷な税金と乱暴な搾取を韓国人に加えているからその細目はわずらわしい。そして何も持たずに韓国にやってきた貧乏な日本の国民たちは蜂の群れのように押し寄せてくるから、我々韓国人の財産を奪われてしまい、生活を続けることができなくなった。彼らの政府は植民することだけせっかちになって、その上彼らにあげる物資がないから、たとえ韓国人に寛大な政治をほどこして命のつなを保とうとしても、生活が不可能だ。天と地は果てしなく、物悲しい息遣いをして苦痛に泣き叫び、無念さを訴えることを自分からやめることはできない。(パクウンシク、韓国痛史)
(写真) 刀を持っている日本の教師
(写真) インド人が担いでいる駕籠に乗った英国人
日帝植民統治に反抗した独立運動
日帝の国権略奪と植民統治に対抗して我々民族は多様な独立運動を行なった。日帝の韓国併合に前後して多くの愛国人士たちが海外に亡命し独立運動のための基盤を作った。国内では秘密結社を組織して日帝に抵抗した。このような抵抗は1919年になって3・1運動という民族あげての抗日独立運動として発展した。3・1運動は義兵、啓蒙運動勢力など従前にいろいろに分かれていた民族運動がひとつになって統合され、独立に対する民族的熱情を高めた点で何よりも大きな意義があった。これに助けを受けて上海に共和制を基礎とした大韓民国臨時政府が創立された。
3・1運動以後には社会主義運動が登場し、民族運動に大きな変化が起こった。1917年ロシア革命以後、社会主義は世界各地に広がった。帝国主義列強は植民地経営と収奪に余念が無いのに反して、新しい社会主義国家であるソ連は植民地・半植民地民族の解放運動を支援した。その結果、社会主義思想は全世界の弱小民族の解放運動に大きな影響を与えた。
朝鮮の民族運動も社会主義の影響を受け始めた。社会主義思想が登場すると、民族運動は民族主義運動と社会主義運動に分かれた。この二つの潮流の民族運動の間に協同戦線運動が起こった。1920年代の新幹会運動はその代表的な例だ。中国をはじめとする海外でも同様にさまざまな試みが起こった。
独立運動は海外でも活発に展開された。米国の居留民と民族運動家たちは外交を通じた独立運動に多くの努力をした。臨時政府も多様な外交活動を展開した。沿海州と満州では独立軍が武装闘争を活発に展開した。特に、満州独立軍は1920年ポンオドン戦闘とチョンサムニ戦闘で日本軍を撃破し、わが民族の独立の意志を内外に示した。
社会主義者たちも抗日運動を展開した。そのなかで代表的なのが華北朝鮮独立同盟と朝鮮義勇軍の抗日戦だった。これらは中国の華北地方で中国共産党と連合して抗日戦争を戦ったものだ。1930年代満州地域でも社会主義者たちが遊撃隊を組織して抗日闘争を展開した。大韓民国臨時政府も日帝の末期になると韓国光復軍を創設して軍隊を訓練し、将来あるであろうと予想された国内進軍作戦に準備をした。
武装抗日闘争とともに我が民族は様々の方法を動員して日帝の侵略と植民統治に抵抗した。知識人と学生たちは民族文化を守護して民衆を啓蒙して独立に必要な実力を育てようとした。経済的束縛に抵抗して、起こった労働運動と農民運動もしだいに植民支配に反対する性格が強くなってきて民族解放運動の主要なひとつの柱となった。
韓国光復軍の一日
(写真) 韓国光復軍の訓練のようす
この日の夕方、韓国光復軍訓練班全員が出席した場所で歓迎会(仮面劇 学徒兵など韓国光復軍に加入した兵士たちのための)がが開かれた。(中略)
我々が知っていたアイルランドの民謡曲ではなくてアンイクテ氏作曲の曲だった。我々はついて歌うことができなくてそのたくましくて荘厳な雰囲気に頭を垂れた。・・・・とうとう独立軍の歌がその最後を締めくくってくれた。
遼東半島の広い荒野を戦い終えて
清い河川に兵隊が百万
全滅させられた
東明王とウルチ公の勇進法
のように
我々もそのように敵同士になれ
戦場に出て行け、戦場に向かって進め
剣樹刀山も顧みず
出て行く時に
光復軍の勇敢力を思う存分発揮して
三千万回勇敢力を出そう。
力強く気迫ある軍歌だった。知らないうちにわが国が独立でもしたように、我々は誇らしげで堂々とした自尊心を感じるようになっていた。(チャンジュンハ、石の枕)
3.現代社会の理解
主題1.光復と南北分断
分断の歴史、現代史
南北分断の原因
民族のもうひとつの別の軌跡、北朝鮮の歴史
南北朝鮮の憲法比較
資料1.大韓民国憲法(1987.10.29改正)
資料2.北朝鮮の社会主義憲法(1998.9.5改正)
主題2・社会の発展と世界進出
政治的試練と民主主義の発達
韓国近代化の政治的性格
経済発展の成果と課題
世界に伸びて出て行く大韓民国
9月 23rd, 2009
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出版 四川人民出版社
編著 何天義
価格 22元
目次
序言 中国にも”アウシュビッツ”があったのか?
1. 人間地獄南兵営
〜石家庄収容所
2. 殺人魔の巣窟新華院
〜済南収容所
3. 犯罪的な工事隊
〜太原収容所
4. 西垣苑特別蘇生隊
〜北京収容所
5. 西工兵営血と涙
〜洛陽と河南の収容所
6. 戦争捕虜労働者中継点
〜天津、タンクー、青島収容所
7. 長江はとうとうと怒涛が逆巻く
〜江南各地の収容所
8. 同盟国の居留民は中国で
〜龍華、濰県の収容所
9. 同盟軍の戦争捕虜は中国で
〜香港、海南、奉天の収容所
参考図書
付録
12月 30th, 2008
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